メモ:後藤田正晴の功罪

後藤田正晴氏というと、政界に出てきた当時は、石原慎太郎よりも危険な人物という印象だったのですよね。なんだかいつのまにか鳩派の重鎮になっちゃいましたけれども。たとえば「後藤田機関」なんて言葉は、今の人はどれくらい知っているのでしょうね。
 
まずは功罪の“功”から。
 

JANJAN
緊急インタビュー いま何を考えるか 戦後60年の夏 2005/09/06
後藤田正晴は語る
http://www.janjan.jp/special/interview/gotoda.php

瀬戸際の日本
1.自爆か変革か
10分22秒 500kbps
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2.小泉政治の功罪
13分55秒 500kbps 
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3.国のかたち
13分05秒 500kbps
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4.外交・安保への疑問
14分 500kbps 
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5.憲法について
23分 500kbps
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後藤田正晴というと、宮澤内閣の時、当時厚生大臣だった小泉純一郎氏が「常任理事国入りに反対だ」と言った時に「小泉君の言う通りだ」と小泉純一郎の肩を持っていたということがありました。
 

噂の眞相
http://www.uwashin.com/

94年12月号 特集4 「国連常任理事国入りを狙う外務省条約局マフィアの“暴走”」
(略)
●外務省の常任理事国入りの野心外務省はなぜこれほどまでに、常任理事国入りにこだわるのか。当の外務省は「外交当局として行うべき手続きを進めているだけ」と否定してみせるが、今にいたった経過を振り返ってみれば、政府指導下に置かれているはずの一省庁の、越権的動きが浮かび上がってくる。
常任理事国入り問題の騒ぎの発端は、最後の自民党単独政権となった宮沢喜一政権の末期、昨年6月29日午前の閣議でのハプニングから始まっている。ポスト冷戦時代の世界情勢を受けて、新しい国際秩序を担うため、国連改革を進めようとするガリ事務総長から意見書の提出を求められ、日本政府として「安保理においてなし得る限りの責任を果たす用意がある」と回答する方針が、その閣議で報告された。事実上、常任理事国への立候補の意思表示をする内容になっていることからへ閣僚の間から外務省の手法の唐突さを痛烈に批判する声が挙がったものだった。
当時を振り返ってある自民党関係者がいう。
「外務省はもともと閣議の報告でさえ、『意見書というものを提出するための手続きとして必要ない』といって突っぱねていたくらいでした。それでも、常任理事国入りに慎重な考えを持っていた宮沢元首相が『報告したほうがいいだろう』と指示したことで、やっと提出されたのです。当時は宮沢内閣の不信任が可決され、総選挙となっていた政治の混乱期。そういったなかで、外務省がどさくさにまぎれて、ろくな説明もしないまま、この意見書が提出されたのです」
そんななかでも、小泉純一郎郵政相(当時)などは「外務省は独断専行するな。重大な意見書でありながら、閣議でも自民党でも一度も話し合っていないじゃないか」と反発。後藤田正晴副総理・法相(当時)も「小泉君のいう通りだ。外務省のやり方はよろしくない。外務省のいつもの手口で、既成事実を積み重ねようとしている」と追認した。
この閣議での反応に危機感を抱いた外務省は直ちに、小泉らを説得するために外務省の丹波実条約局長や渋谷治彦国連局長(ともに当時)ら担当者を派遣。意見書の提出には、とにかく反対しないように頼み込む“根回し”を行っている。その結果、意見書は国連に提出され、これを契機に日本の常任理事国入りへの流れが作られていくことになる。
(後略)

 
小泉を常任理事国入りに丸め込んだ「外務省条約局マフィア」の丹波実条約局長は、小泉政権ではイラク戦争が起こった当時は外務審議官(事務次官、北米局長の次ぐらいの地位)という外務省の最重要ポストにいました。その“官僚に弱い小泉”が「官から民へ」とか言っているのだから笑えます。
常任理事国入りに強く反対していた小泉純一郎は、総理になってからはスタンスを「常任理事国入り推進」に大きく転換し売国者の道を歩んでいますが、後藤田は、政治家として常任理事国入りには一貫して慎重姿勢。(結果的に常任理事国入りに失敗したのだから小泉のスタンスは変っていないという結果論もあるにはありますが…)
 
こうやって眺めると後藤田正晴を誉めたくなってしまいそうになりますが、そこはグッと堪えて、いわゆる「後藤田機関」についての情報(公明党が与党になった遠因を作った一人が後藤田正晴警察庁長官だったという事実)を、功罪の“罪”の一例として書いておきます。
 

噂の眞相
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85年2月号 特集3 懲役五年を求刑された山崎正友の『マスコミ総動員型恐喝』の手口
(略)
山崎事件で自民党が仕かけた陰謀
こうした謀略家を組織の重要なポストにつけ、しかも、旧悪を材料にやすやすと三億円を脅しとられる創価学会の体質には大いに問題がある。池田大作の下半身スキャンダルについても、学会側が全面否定しているにもかかわらず、マスコミ周辺ではあい変らずくすぶり続けており、ハタ目には“体質改善”は進んでいないように受けとられるが、それはともかく、この創価学会vs山崎正友の闘いの中で、もう一つ見落とされている側面がある。
結論からいえば自民党がこの山崎告発を最大限に利用して、公明党を右旋回に誘導したことだ。
山崎手記を軸にしたマスコミの反学会キャンペーンが頂点に達した五十五年十二月初旬、自民党内に有志議員による一つの団体が誕生した。三塚博を代表世話人とする「創価学会等の不正を糾(ただ)す議員連盟」である。
この議連は、会合に山崎を呼んで学会の内情をつぶさに聞いたり、池田大作の国会喚問を要求したりと、活発な活動を展開していた。山崎が逮捕された後も、三塚は原島嵩・元学会教学部長、反学会系信徒・藤井芳蔵、評論家・内藤国夫と今後の運動の取り組みについて座談会を行い、自民党機関誌「月刊自由民主」に掲載する工作を行っていた(結局はボツ)。
最盛期には百人以上の議員を集めたこの議連は、当初「選挙区で公明党候補相手に苦戦している連中の野合」(ある野党議員)とみられていたが、この見方は表層的。中心メンバーを見ると、石原慎太郎亀井静香ら名うてのタカ派議員が集まっており、この山崎問題を政治的に利用しようという意図があったのである。陰謀の構図はこうだ。
当時の公明党は、現在のように連合政権に色目をつかうこともなく、社会党民社党に、ブリッジをかける野党共闘の中軸的存在だった。護憲・平和を党綱領に掲げ、創価学会青年部も粘り強く反戦反核の運動を展開してた時期である。また、共産党との間には“創共協定”を結び、対決を回避する関係にあったことは間違いない。
自民党、とりわけタカ派の議員にとってはこの野党連合の要を何とか崩したかったのである。当時の支配層の悩みは長期一党政権の矛盾が露呈し、疲弊しはじめた点にあった。そこで、昭和六十年代に中道政治勢力を巻き込んだ“新保守”を形成するため、この時点でなんとしても野党勢力から社会党の分断と共産党の孤立化をはからねばならなかった。そのためには公明党を抱きこむことが必要だったのである。
内幕情報には定評のある会員制情報誌「インサイダー」(五十五年九月一日号)は自民党の“陰謀”について次のように報じている。
「七五年以来のこの創価学会揺さぶりと取り込みの工作を演出してきたのは、通称、“後藤田機関”であるとの見方が強い。田中角栄の私的情報機関であると同時に、体制総体の利害を守るための公安工作の拠点ともなってきた。この後藤田正晴警察庁長官を中心とするグループの実態は詳かでないが、東京・赤坂のホテル・ニュー・ジャパンの一室に少なくとも一時期は本拠をすえて、旧内務省人脈を背景に活動を行なってきたといわれる。自民党筋の信ずべき情報によると、後藤田機関の周辺からは、苦境に立つ学会中枢幹部に対して“学会が靖国神社国営化に反対しないとの態度を明確にするなら田中角栄が乗り出して学会攻撃を止めさせるよう調停してもいい”との提案が行なわれているという」
“後藤田機関”のこうした水面下の工作を裏とすれば、議連の活動は表の動きといえる。三塚らの画策した池田国会喚問は、国会対策上公明党反自民にしてしまうという党首脳の反対で頓挫したとされているが、池田喚問は公明党を脅す最大のカードとして、何回も持ち出され、その都度、公明党がジリジリと後退していったことは間違いない。
三塚らの「糾す議員連盟」はその後消滅するのだが、これは基本的な任務を終えた、と解釈できる。案の定というべきか、その後の公明党は「自衛隊強化」「連立政権指向」とまさに自民党の思惑どおりの道を歩んでいるといわれても仕方がないだろう。昨年十一月の二階堂擁立クーデターへの公明党の関与も連合政権を前提としたものだ。
(後略)

 
後藤田正晴という人物がいなければ、公明党の右転換は無かったし、小選挙区制度も完成しなかったのではないかと思います。だとすれば、後藤田正晴こそが、今の小泉内閣の土台を作った張本人であるという見方もできるかもしれません。
そして自公大勝の総選挙が終った直後、小泉を批判した後藤田正晴はこの世から去った。
自分の理想を実現したことによって、自分が理想から裏切られる。
政治とは実に皮肉なものです。
 
関連報道。
 

徹底して平和主義説かれた 前原民主党代表
http://www.kahoku.co.jp/news/2005/09/2005092101001289.htm

民主党前原誠司代表は21日午前、後藤田正晴元副総理の死去について「立派な政治家だった。人物、識見、気骨、すべてに尊敬できる方で、心からお悔やみ申し上げたい」と述べた。
前原氏は「戦争体験者として徹底的な平和主義を説かれたことは大事なことだった」と指摘。特に靖国神社参拝問題について、後藤田氏が官房長官当時に中曽根康弘首相に参拝自粛を求めた点を挙げ「私もその思いを引き継いでいきたい」と強調した。党本部で共同通信社の取材に答えた。
民主党野田佳彦国対委員長は記者会見で「存在感があって偉大な政治家が亡くなった。心からお悔やみ申し上げたい」と述べた。

首相、小選挙区大勝に「複雑な思い」・後藤田氏しのぶ
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20050922AT1E2200W22092005.html

小泉純一郎首相は22日夜、首相官邸で記者団に、19日に死去した後藤田正晴元副総理を弔問したことに関連し「小選挙区制論者の後藤田先生とは政治改革の時によくやり合った。『この制度はうまく機能しない』と議論していながら、(先の衆院選で)このような勝利を自民党が挙げるとは複雑な思いだ」と故人をしのんだ。

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