殺されてもいい


http://www.janjan.jp/media/0508/0508070500/1.php

●6日夜、森喜朗前首相が小泉純一郎首相を突然訪問。
【タイの「シンハビール」など外国産の缶ビール10本】(日経)を飲みながら1時間20分にわたって激論をかわした。森氏は会談後、記者団に「さじを投げた。ここまでくると変人以上だ」と“絶縁宣言”した(各紙)
森氏が明らかにしたやり取りは……
【(首相は)おれの信念だ。おれは殺されてもいい。それぐらいの気構えでやっている。だから可決するために努力してくれ、と手を握られた。(法案)可決のため努力した人たちが路頭に迷うようなことがあったら君はどう責任とるんだ、と言ったら(首相は)仕方がない。おれは総理大臣だ。おれは郵政民営化をやるって言い続けてきた。だから絶対に通してくれ。可決のために努力してくれ。解散を好んでやるわけじゃない】(産経)

 
殺されてもいいという言葉を言える人は、殺してもいい場合もあると普段から思っている人なのではないですか?
以前「どうして人を殺してはいけないの?」という疑問が話題になりましたけれど、「どうして人を殺してはいけないのか?」との疑問の議論は、後日、殺されたくないと誰もが思っているから人を殺してはいけないのだと答えることができるだろうという結論になったと私は記憶しています。
しかし、法律を執行する最高責任者である内閣総理大臣が、親しい同僚に「殺されてもいい」と発言し、その発言が一般に知られるところとなった。
この事実を、みなさんはどう受けとめますか。
殺されてもいいぐらいなにかをなすべきことがあるのなら人を殺してもかまわないのだ、と青少年が受けとめられ、「殺されてもいいと思ったから殺した」と主張して殺人を実行するようになる時代が近く到来するのではないかという疑問がわきました、私は。
 
いや、もうすでにそういう時代なのかもしれません。
みなさんには、殺されてもいいと思えるほどしたいことってありますか?