絶望から生まれる物語、希望から生まれる実践例

 
ところで話題はかわりますが、ほんとのわかっているけれどその反対の言動に充足する転向者、あるいはメディア叩きならたとえば朝日なら朝日を絶対悪として叩くだけの表出で終ってしまう人のタイプには、共通点があるように私には見えます。
それはなにかというと、彼らはそうやって笑う以外にメディア(の問題に限りませんが)をあるべき姿に変化させる具体的な方法を知らない、あるいは確信できないという、ある意味で絶望的な認識(私はそういう絶望認識こそ幻想だと思いますけれども)に立っているという点です。
 

どこへ行くべきか
ゴールを彼らは感じている
ゴールに行く自由も
彼らにはある
しかしゴールに行くための
具体的な道を彼らは知らない
だから彼らはそこにとどまり続ける

 
知らないから無いとは言えないのだけれど、「道は無い」「ここがゴールだ」と信じてしまった方が楽な状況がたくさんあるということも影響してか、状況を変える方法が無いという前提で行動する人がいるのは事実でしょう。
最近では、ゴールに行く道は無いという前提で行動しなければ幸福になれないと信じきる人が増えているようで、ゴールに行く道それ自体が恐怖になっていて、ゴールに行く方法を示す人をバッシングすることによって安心するという顛倒した状況もあったりします。バカな誰かさんのサヨク叩きなんてのはその典型かもしれません。
 

どこへ行くべきか
ゴールを彼らは知っていた
ゴールに行く自由も
彼らにはあった
しかしゴールに行くための道を
彼らは知らない
道などはじめから無かったと
ここがゴールだと
彼らは信じたい
不自由こそがゴールだと
彼らは信じたい
だから彼らは
ゴールを示している奴らこそが
悪だと言わずにいられない

 
人は、たとえば、食べたいケーキを心の中で想像した時よりも、牢獄の窓の外にあるおいしそうなケーキを見た時のように、無いものが手に入らない苦しさよりも、目の前にあるものが手に入らない苦しさの方を、より苦しいと感じるところがあります。
でも、もし牢獄から出て目にしたケーキを手に入れる方法を知っていたら、あるいは実際に手に入れた人を知っていたら、「ケーキなど無い」とか「あれは私がほしいものではない」などと信じる負け惜しみの気持ち*1は薄らぎ、現実にしようと努力するかもしれません。
理念の実現を求める心が間違っていたわけではなく、単にその方法を知らないだけだってりするわけですよ、転向者を含めた絶望者は。
 
というわけで結論ですが、ゴールにたどり着くための手段・方法、あるいはゴールにたどり着いたという実績を提示することは、「もう効果は出た」「逆効果だから吹き上がりすぎるのはやめろ」と正論(?)で自粛を求めることよりも、「そっちじゃないよ。あいつあんなところに行ってやがる。ばあか」と笑って楽しむだけの“表出”で終る彼らをより説得することになるのではないかと思います。
やはり自分で目的地に向って歩いて見せて、歩いている人が「とりあえずこうやってこっちに向って歩いてごらん。こっちに来いよ」と率先して範を垂れる機会を作ることが必要かと。
一万の仮定を示すより、ひとつの実例を示すこと。
一万のプランを示すより、ひとつの実績を示すこと。*2
それは、オタク叩きに対するカウンターについての議論だけではなく、昨今話題になっている放送と政治についての議論や、その他さまざまなレベルで有効であるような気がします。
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*1:「キツネとブドウ」の逸話に似ていますね。

*2:なんだか会社の企画会議で使えそうな殺し文句だな。つーか私の元上司が部下の企画を通す時によく使っていた文句だ。