「奈良幼女誘拐殺人事件」という物語を克服するために

 

松谷創一郎*1
「奈良幼女誘拐殺人事件」という物語
http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20050116

 
松谷創一郎氏のメディア言論の宮崎勤事件報道との比較分析については参考になりました。
ただ、ちょっとそれはどうかなと思える点もあります。
たとえば、
 

実際、現在の報道は性犯罪者の再犯防止策を講じる方向に傾いており、事件が非常に陰惨かつ情緒に訴えかけるような内容にもかかわらず、極めて冷静かつ生産的な方向に傾いていると思う。

 
とあるのですが、「極めて冷静かつ生産的な方向に傾いている」というのはいかがなものでしょう? 
たしかに「性犯罪者の再犯防止策を講じる方向」は生産的ではあるでしょうが、その内容は「ワッツ!ニッポン」*2で示されているような荒唐無稽な再犯率を前提にした出所者に対する人権制限が議論されはじめたり、「非公式の情報共有」とは名ばかりの捜査による恒常的生活監視を含む政策が議論されてはじめている*3わけで、しかも対象犯歴は今回の事件とはまったく無関係な放火犯歴者を含まれています。
人権制限は可能だとするネオリベラル的な思考を肯定するなら、選挙法違反や道路交通法違反を含めたすべての犯歴者の情報を共有・公開すべきであって、性犯罪者だけを特別視することには合理性がありません。
という点を知りつつ「極めて冷静かつ生産的な方向」と言っているのだとすれば、そう言っている人の「極めて冷静な」とはなんなのか、「極めて生産的な」とはなんなのか、疑問が湧きます。
それからもうひとつ。
 

「マスコミは客観的な事実を報道せずに、勝手にウソの『物語』をでっちあげやがって!」という類のものだ。しかし、それはそれでまた極論である。

 
という点。
極論ですか? この意見の理由として松谷氏は
 

さらにもうひとつ決定的に言えることとして、「物語」にならない言説とはありえない。なかには「マスコミは客観的な報道だけしていればいい」という向きもあるが、そのときに使われる「客観」とは、概して「誰もが納得できるような、透明な視角」というようなニュアンスがある。
しかしながら、厳密に言えばそのような「透明な視角」とはありえない。だれかがなにかを述べたときには、必ずそれは大なり小なりバイアスを帯びる。それを避けることは不可能だ。「客観」的に思える報道も、マスコミが記者クラブで警察発表を鵜呑みにしているかぎりは警察の恣意性を孕んでいるし、たとえその発表を鵜呑みにせずに、マスコミが独自の取材によって情報を入手し報道したときでも、それらのすべての情報からなにを報道しなにを報道しなかったかは、マスコミの任意によるものだ。
以上を考えてもわかるように、誰もが納得できる「透明な報道」などありえない。これは、「誰もが納得できる言葉」などというものがありえず、また「誰も傷つけない言葉」もありえないということも意味している。「表現」というものは、常に既に、不透明なものなのだ。

 
と書いていますが、いかがなものでしょう。
たしかに「客観」については、昔からカントなど哲学者やいろんな人が客観の絶対性を疑っていましたし、ジャーナリズムの世界では事実の切り取り方やキャプションのつけ方ひとつで事実の論評が変ることは知られており、客観は観測不能かもしれません。
しかし、サルトルではないですが、事実の観測不能性があるということと報道の客観“性”を「意思」し、あるいは「信頼」することとは別でしょう。
客観だから報道が認められているのではなく、信頼するに足ると思えるから認められいるのであって、その信頼を損なっていると思えるようなおかしい論評をしているから批判されていると考えるべきではないでしょうか。
「誰もが納得できる言葉」などというものはあり得ないそうですが、それは「誰もが納得できる客観的事実」が無いということでは無く、「誰もが納得できる意見(価値判断)」が近代民主主義において合意でき無いだけに過ぎません。
かつては、報道と論評は一体のものとして考えられていました。しかし、民主主義が発展した現代では、報道と論評を区別するのが常識です。であるからこそ、たとえば刑法第二百三十条の二の規定*4で認められる報道特権*5は存在し得るのでしょう。
現在では、報道と論評を区別するだけではなく、報道内容と報道主体、報道と情報源(ソース)、報道(記事)と報道媒体(メディア)も区別する時代です。そういう時代に、合理的懐疑によって検証するのは正しい態度ですけれど、「表現は常に不透明なものだ」と言いきってしまうのは言論の性悪説に傾きすぎているようにも私には見えます。
なので、私は「マスコミは客観的な事実を報道していない」という批判を全否定する気持ちにはなれません。
ついでに言えば、
 

残念ながらそんな「物語」を欲しがる消費者(読者、視聴者)は、世の中にたくさんいる。事件報道だけでなく、芸能人のゴシップなどではありもしない記事が溢れ、それを通俗的な好奇心で消費する人はたくさんいる。そこで「私は違う!」ということを胸を張って言える人が、どれほどいるのか? 大谷氏が「フィギュア萌え族」という造語を作ったのも、そのような通俗的な興味を喚起させる目的がうかがえるのは自明であろう(どうやら、それには失敗しているようだが)。

 
という点ですが、私は「私は違う!」と胸を張って言えます。
私は年末の忘年会で知人とカラオケでマツケンサンバの替え歌で「モエゾクサンバ」*6を歌って盛りあがったりしていましたが、それはイデアとそうでないものとの違いを自覚しているからできるのであって、大谷氏が常々主張している調査報道の必要性や記者クラブの弊害などの主張には私はまったくの同感ですし、であるからこそ大谷氏は批判されて当然だと私は思っています。
通俗的な興味でメディアに接していることと、メディアが報じる事実“性”を疑うこととは別ではないかと思うのですが、いかがですか。
メディアが報じる事実“性”を疑った結果として通俗的な興味でメディアに接している人はいるかもしれませんが、メディアの報道は事実に基づくべきだとジャーナリズムの理念を信頼しつつも、実際に書かれていることは虚実を混ぜたものだろうと、眉につばをつけてメディアのアホ記事を楽しむ人は少なく無いでしょう。というかむしろそういうふうに疑問を持ちながら自覚的にメディアと接する方が健全です。
事実の“解釈”としての「物語」を欲している人はいるでしょう。
しかし、「物語」を欲している人のすべてが、解釈の前提となる客観的な事実は無いなどと信じているとは限りません。あくまでも客観的な事実があるという前提で、事実の解釈として「物語」を欲している人もいるでしょう。
ということを踏まえて
 

前述したように、大谷氏は「フィギュア萌え族」という造語を新聞やTVで繰り返し使って今回の事件を語っているが、それ以外にはほとんどオタクバッシングは見られない。大谷氏に限定されていると言ってもいいほどだ。繰り返しになるが、報道を全体的に眺めると再犯防止策に傾いており、ことさらに加熱したものにはなっていない。
だが、ネットでは大谷氏の発言がとても注目されている印象がある。もちろん彼の不用意なコメントに早い段階で釘をさす必要もあったとは思うのだが、容疑者逮捕以降の報道を見るかぎりは、結局大谷氏の「フィギュア萌え族」という物語は的はずれなものとして終わったという印象がある。
ただ、そのような状況にもかかわらず大谷氏への批判は、ネットではグルグルと回っているような印象がある。逆に、大谷氏を批判しているネットこそが「フィギュア萌え族」という彼の造語を鍛えてしまっているような印象も持つ。つまり、大谷氏批判を繰り返している人にとっては、現状ではかなりの逆効果を呈し始めているように思えるのだ。

 
を読むと、うーん、そうなの?と私は思ってしまいます。
たしかにおかしな論評は大谷氏に限定されているようにも見えますが(実際にはテレビでは大谷氏の論調に同調したコメンテーターはいますが)、
メディア叩きにも二種類あって、本来あるべきジャーナリズムを信頼して批判する場合と、そんな理念はどうでもよくてメディア叩きしている人の二種類がいると思うのですよね。
「ネットでは大谷氏の発言がとても注目されている」というのは事実でしょう。大谷氏の「フィギュア萌え族」という物語は的はずれなものとして終わったことも事実でしょう。
けれど、その本当の理由は、
 

現状は大した問題意識も持たずに「大谷氏を批判するムーヴメント」に乗っているだけの人(=フォロワー)が、大した政治性のまいままに騒いでいる

 
というよりはむしろ、本来あるべきジャーナリズムを信頼し政治性を意識してその表現にも気を配って批判している人と、そんな政治性はどうでもよくて叩いている人が、混在していることが背景にあると私は考えます。
たとえば、テレビで大谷氏のオタク叩きに同調していた人に勝谷誠彦@メディアリンチ主義者がいますが、彼に対する批判は残念ながら大谷氏に対する批判ほど大きくはありませんでした。
つまりぶっちゃけ言うと、
 

これまで何度も政府や企業などの権力を批判し、客観報道を標榜し、記者クラブの払い下げ情報のコピペで商売しているマスメディアを批判し、黒田軍団で調査報道を続けて、みんなからサヨクと呼ばれていた大谷昭宏氏が、自分がやってきたことを否定するようなマヌケを演じて自滅しているのが楽しくて楽しくてしかたがない。だからオレたちはおもいっきり楽しんで宣言してやろうではないか、「サヨクの大谷は終った」と。

 
という倒錯した動機で批判している奴や、そういう気分に同調している人が結構いるということです。という意味でなら「大谷氏を批判するムーヴメント」に乗っているだけの人が、大した政治性のまいままに騒いでいる」との認識には同感です。
 
たとえば具体例を挙げると、2ちゃんねるのとある方の「うんこなわけだが」は、まさにそういうことなわけだが(ここは笑うとこね)、メディアの無軌道ぶりを修正するための生産的な効果うんぬんといったことは眼中になく、「普段から気に食わなかった大谷が自分で墓穴掘ったのが面白いから笑ってつぶしてやろう」ということにすぎない。
喩えるなら、普段から気に食わない奴が犬のうんこを踏んで「なんでこんなところにうんこがあるんだ! うんこ萌え族の仕業だ!」とわけのわからないことを言ったのを見て「ばーかおまえがうんこだろ」と笑って楽しんでるということです。
そういう情報消費社会のある種の“娯楽”としての「物語」を、ジャーナリズムの本義をもわきまえつつ、大人の娯楽として自覚して楽しんでる“ぁゃιぃ”的な人はまあ許せるとしても(ほんとは良くないかもしれないですけど)、壷などにいる一部の人たちみたいに無自覚にメディア叩きを素(す)で楽しんでいることが問題なわけで、ジャーナリズムの理念をふまえた自覚者とそうではない無自覚者との区別をつけて大谷批判を認識する必要があります。
大谷氏がかつて言ってきた客観報道、調査取材の重要性それ自体は否定すべきではないし、批判も妥当ではありません。批判すべきは、大谷氏が言っていたことを大谷氏自身が守れずズサンな論評に甘んじたということだけです。
それが、「奈良幼女誘拐殺人事件」という物語を克服する前提だと私は考えます。
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読者氏が別な観点から批判していますね。
 

http://d.hatena.ne.jp/dokusha/20050116#p2

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*1: http://home.att.ne.jp/wind/trickfish/profile_matsutani.html

*2: http://d.hatena.ne.jp/kitano/20050108 参照

*3:警察庁に検討チーム発足 性犯罪者の再犯防止問題で http://www.sankei.co.jp/news/050113/sha047.htm

*4:刑法のいわゆる「報道特権特例」 (公共の利害に関する場合の特例) 第二百三十条の二  前条第一項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。 」 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/M40/M40HO045.html

*5:ここで言う「報道」は記者クラブの情報に依存するマスメディアだけを指しているのではなくて、個人の言論をも含んでいることに注意。

*6:♪叩けフィギュア けなせマニア 歌え真夏のアキハバラ 誰も彼も犯罪騒ぎ 曇る理性はじけとぶ とけた脳に言葉あずけ 心ゆくまで怒鳴れば 壷も嗤うよ萌えのサンバを 街にあふれるエゴイズム オーレ俺〜 モエゾクサンバ オーレ俺〜 モエゾクサンバ あぁ恋せよフィギュア 創ろう幼女リータ 眠りさえ忘れて萌え明かそう サンバ ビバサンバ モ・エ・ゾ・ク・サンバ 俺ッ!