南京事件の記憶:あるおばあさんの沈黙

以下に書くことは、ほんとうにいまこの日本で起こっていることです。
私の知人の詩人が、数年前でしょうか、彼の友人のおばあさんの人生を詩に書いたことで以下のような事実を私は知りました。。
おばあさんは、むかし、南京事件を起した連隊の従軍看護婦で、たくさんの処刑を見てきたそうです。
だけど、そのおばあさんは、上官から「お国のため、見たことは死ぬまで決して口外してはならない。これは軍の命令であり、死んでも守らなければならない天皇陛下の勅命であると心得よ」と命じられていたので、戦争が終って昭和天皇が「人間宣言」を出した後も、ずっとずっと長い間事件の真実を誰にも語らず、結婚しても夫にも子どもにもなにも言わなかったそうです。
ところが、子どもが結婚し、夫が死に、自分ひとりが家にとりのこされたとき、おばあさんに変化が起こりました。
おばあさんに痴呆がはじまったのです。
戦争が終って48年が過ぎたその年、おばあさんは痴呆の治療のため、施設に入ることになりました。
おばあさんの痴呆は、いままでずっとずっと長い時間沈黙を守ってきた心の禁忌を解き放ち、長い間言いたくても言えなかった、本当の自分の心の声を出させたのです。
 
「お願いです、殺さないで下さい!」
 
おばあさんは恐怖で満ちた顔で叫びます。
 
「殺さないで下さい! 助けてあげてください!」
「ああああああああああああああああ」
 
おばあさんの頭の中で南京事件の光景がはっきり浮かんでいるのでしょう。
おばあさんは泣きながら叫びつづけます。
 
「ひどいことしないでください。お願いですから」
「首を切らないで! 助けてあげて!」
 
朝起きてからずっとこんなふうに。
 
「もう殺さないで!」
「ああああああああああああああああ」
 
朝も、昼も、夜も、目が覚めているあいだじゅうずっとずっと。
 
「苦しんでいます!」
「それ以上苦しめるのはやめて!」
 
こんなふうに恐怖と悲しみと悔恨の念に苦しめられ、一日中叫びつづけて。
 
「女の人にそんなひどいことしないで! 赤ちゃんだけはたすけてあげて!」
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
 
日本人が中国人の女性を強姦し、妊婦まで殺したのは間違いのない事実です。
そしておばあさんは疲れ果てて疲労困憊して医者に鎮静剤を注射されて眠るまで、ずっと土下座し、施設の床を手でドンドンたたきながら誰も聞いていない罪を告白し、誰も聞いていない罪を謝罪し、叫びつづけるのです。
 
「ゆるしてください! ゆるしてくださあい!」
「ああああああああああああああああ」
 
おばあさんの心の傷は、どんなに深かったことでしょう。
家族や知人の「あんたのせいじゃない。あんたが悪いんじゃないんだよ」という言葉は、おばあさんにとっては慰めにもなりません。
叫んでも叫んでも失われた命はかえって来ないし、泣いても泣いても虐殺の事実はおばあさんの記憶が決して消えず、おばあさんの心を苦しめ続けます。
昨日も。
今日も。
明日も。
たぶん完全に痴呆になって、心が死んでしまうまでずっと。
…。
繰り返しますが、これはほんとうにいま、この日本のある東北地方のある施設で起きていることです。
でも、おばあさんの叫び声と涙は、家族と施設にいる職員の人とごく近い知人しか知りません。

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