痛みを想像するということ

 

人の痛みのみが
僕の痛みを
和らげることができる。

(神戸市小学生殺人事件の加害少年の犯行声明文)

 
わたしたちの社会は、あの少年よりも、人の痛みを想像できているのでしょうか。
と書くと「性表現は子どもを虐待している!」*1とか言う人が出てきて鼻白むことが多々あり、おまえのその無神経な偽善が子どもたちの心の悪意を育てているんだよと心の中で反論する機会が増えている昨今の状況は憂うべき状況だなあ、などと考える日が多くなりました。
 
お金が無くて国民健康保険を持てず、病気になっても医療を受けられずに死んでいく子どもたち。
親の1/3以下の年金しかもらえず、2倍の保険料と税金を負担する子どもたち。
子どもを守れといいながら国と地方の教育行政予算を減らしている大人たち。
殺すな暴力をやめろと言いつつ、侵略戦争への政府支持や派兵を止められない大人たち。
偽善を演じているのは誰なのか。
 
虚構の偽善を演じて見せたあの少年を非難する大人たちの内面の人間性が醜ければ醜いほど、大人たちはその醜さを見せまいとして鏡を演じた少年を壊そうとします。
そんな倒錯した社会で、私たちは、私は、どう生きればよいのか。
という疑問に、加害少年の犯行声明文を乗り越えるだけの答えを導く思想が、多くの大人たちに欠けているというあたりが、少年問題の本当の問題なのではないか、などと私は感じています。
わたしたちの社会は、鬼畜と呼ばれたあの少年よりも、人の痛みを想像できているのか。
心の中での問いかけはこれからも続きます。
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*1: 都議会公明党:石井義修都議会議員「低俗漫画は児童虐待だ!」 http://d.hatena.ne.jp/kitano/20050327#p1 参照