「自由」恋愛は法で制限し得るか

 
少し以前の事件ですが、東京都で淫行条例が作られようとしている今こそ、過去の淫行事件を紹介して議論すれば良いのではないかと思います。
 

■淫行だなんて冗談じゃない!
http://www7.plala.or.jp/vitamin/p/index.htm

裁判の判決がでました。棄却(敗訴)です。余り期待出来るものではありませんでしたが、やはり残念な気持ちです。控訴についてもよく考えてみました、判決文から伝わってくるニュアンス:恋愛が存在したことは認められるが、教員と生徒の性愛は許容されない。との判断。非常に抽象的な論旨で結局は水掛け論になってしまう…。続ければそのまま最高裁までも行ってしまうことでしょう。でも恋愛は認められ守られたのです。これは一定の評価をすべきだと考えます。
結論としては、矛を収めることにしました。許し難いのは処分よりむしろ警察の行動でした。そちらを諦めて、教委に異を唱えても、もはや得るものは何なのか考えた結果です。何れにしろ、一連の行動は後に問題や後悔を残さないための大事なステップであったと思っています。 

事件の概要
http://www7.plala.or.jp/vitamin/p/hazimeni.htm

これまでの論点
事情や内容の如何を問わず、生徒と教師の恋愛が許されないものか、どうか。
抑止の目的で免職をもって排除するのは裁量権かどうか。
極めて民事的な事例に警察が介入するのが適当かどうか。
マスコミの報道は正しくその目的を果たしたか。
であると考えています。

夕刊フジの記事
http://www.zakzak.co.jp/tsui-sat/tsuiseki/contents/0512_01.html

 
この事件は、実際には本当の恋愛関係にあった二人に対して、「教師が生徒を淫行した。恋愛関係ではなく地位を利用して生徒を犯した」という誤った判断で教師を逮捕した、いわば冤罪事件です。
裁判所の判決は「淫行ではなく恋愛だった」と恋愛関係にあった事実を認めて警察の誤認逮捕を認めましたが、違法性については「恋愛でも教師なので淫行として制限され得る」というものでした。
「恋愛は淫行として制限され得る」? どう思いますか、みなさん?
裁判所の判断は、内心の自由に踏みこむ判断ですが、内心の自由についての憲法解釈は裁判所はしていないに等しいように思われます。
この事件の男女は生きていますが、「心中」なんていう前時代的な因習が復活して、「ふたりで彼の世で結ばれましょう」という人が出てくるようなことがあってはならない。
 
教師と学生との関係は、学力を評価する人と評価される人という上下関係にあるので、教師は学生に対する優越的な地位を利用して学生に関係を求めるということがあり得るし、逆に学生が関係を深めることによって評価を上げようと利用するということもあり得ます。
ハラスメント(地位を利用した強要)や贈収賄(公務員の場合)としての性交が発生し得るので、その関係が地位に関るものであるのか、本当に本人たちの自由意思なのか、ふたつの可能性が考えられるということです。
つまり、恋愛のトラブルによって、教師の評価権限や指導権限を管理する教育機関の責任の問題として問われる場合もあり得ることになります。
だから今の学校(すべてではない)では教師と恋愛はご法度だということになっているわけですが、逆に言えば、恋愛関係を第三者が確認できるようにはっきりさせることができれば、恋愛関係上の責任と教育機関としての責任を分離して考えることができるとも言えます。
という理屈で考えると、教師と生徒との恋愛関係などハラスメントが予想される場合は、事前に「恋愛関係上のトラブルが生じても学生は教師をハラスメントで学校に対して法的責任に問うことを放棄する」旨の誓約書を含んだ「恋愛誓約書」を提出して教師と学生の恋愛関係を認めるという法法も考えられます。
教師と学生との恋愛はダメダダメタばかり言わずに、どうすれば恋愛できるような環境をつくるかというポジティブな発想で、自由恋愛ができるとタテマエでは言いながら実際には自由に恋愛ができない社会を実際に変えて行くことがあっても良いのではないでしょうか。
「自由恋愛は法で制限し得る」という公権力等の考え方にはまったく同意できませんが、法の工夫によって「法で制限しなければならない自由恋愛(=内心の自由)」を制限しないでも済む環境を作る努力が関係者には必要ですし、司法はその必要性を立法者に対して示す必要がありましたが、そうではなかったことが私はとても残念です。
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