絶対的な不自由と絶対的な自由

タロットのメジャー・アルカナカード「吊るされた男 」。
たとえば、なにかわけのわからない法律や条例が可決成立してどうしようもなくなった時に、「吊るされた男 」のような気持ちになった人っていませんか?
政治のことに限らず、大事な人が死んじゃったとか、大事にしていたものが壊れちゃったとか、とりかえしがつかなくてどうしようもない状態ってありますよね。
「吊るされた男 」のようにもう自分ではどうすることもできない不自由な状態になった時、人はどうすればよいのか。
「吊るされた男 」のように絶望的に不自由な身なっても、決して失うことの無い、たった一つだけ残された「自由」があります。
それは、自分以外の誰か、あるいはなにかを「信じる自由」。
信仰だけは自由の絶対領域で、これは手足を縛っても奪うことはできません。
神様を信じられない人でも、たとえ自分が今日死んだとしても明日の朝になれば太陽が東から昇るということぐらいは、みんな信じていますよね。
誰かを、あるいは何かを信じて生き、行動する人は、その先に起る未来を、少なくとも信じない人よりは受け入れることができるのではないかと。
なにも信じられない人よりも、なにかを信じることのできる人は強く、自由です。
検閲やくだらない法制度で心を規制しようとしても無駄です。
大事なことは、自分の信じたことに、自分がどれだけ忠実に生きているかということ。
明日が来ると強く信じている人は、明日のために今日を精一杯生きます。明日のジョーです。(笑)
表現が人の心を動かすことを知り、信じ、表現によって人の心を動かすことができると信じる人がいる限り、表現の自由を求める人は絶えないでしょう、10年後も、100年後も、1000年後も。
…。
ところで、上の絵があるこのショートストーリー。いい物語ですね。
いろいろ考えさせられました。

「吊るされた男 THE HANGED MAN」
http://yuwla.com/kaisetu/1-12.html