女性暴力対策と調教ゲーム

内閣府の女性暴力とメディアについての懇談会で、漫画家たちが表現物と女性暴力とは区別すべきだと主張していましたが、内閣府男女共同参画会議女性に対する暴力に関する専門調査会はゲームなどの「取締り」を推進させる立場をとるようです。

内閣府男女共同参画会議女性に対する暴力に関する専門調査会
女性に対する暴力についての取り組むべき課題とその対策 平成16年3月
http://www.gender.go.jp/danjo-kaigi/boryoku/houkoku/index_hbo04.html
第1 取り組むべき課題とその対策
http://www.gender.go.jp/danjo-kaigi/boryoku/houkoku/hbo04-1.pdf

(3) 性犯罪を許さない社会環境の醸成
アわいせつな雑誌、コンピューターソフト、ビデオやインターネット等
の制限
強姦、調教ゲームやSM等の女性を蔑視し物扱いするような内容の雑誌、コンピューターソフトビデオやインターネット上の情報については、現在、事案により、刑法(わいせつ物頒布罪)や風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(以下「風営適正化法」という。)等を適用して取締りが行われているところであるが、特にインターネットによりわいせつ画像を閲覧させるなどの行為については、厳正な取締りに努めるべきである。
また、インターネットに関する法整備としては、電気通信によるわいせつな電磁的記録の頒布についても処罰できるようにするための刑法改正案が検討されており、さらに「コンテンツ安心マーク(仮称」制度の創設に関する)検討や携帯電話等上のフィルタリング機能の実現等に取り組むこととされており、今後も、諸外国と連携しつつ、IT技術の進展に対応した取組に努めていくことが必要である。
児童に対しては、風営適正化法、インターネット異性紹介事業を利用して児童を誘引する行為の規制等に関する法律(以下「出会い系サイト規制法」という。)、青少年保護育成条例等により、児童が有害な情報を目にしないような規制がなされており、今後ともこのような児童に対する特別な配慮を行う必要がある。また、こうした政府の取組と合わせ、これらわいせつな雑誌等については、それらの業界においても、自らの社会的な役割を自覚するとともに、業界の健全な発展が最終的に利益につながることを認識し、自主的な規制に取り組んでいくことが望まれる。
イ性犯罪を許さない社会環境の醸成
性犯罪の防止のためには、社会の各界において、女性の性を商品化するような世相への批判を強め、性犯罪は許されるものではなく、その発生防止は国民一人ひとりの責務であるとの意識啓発を行っていくことが必要であり、女性の人権を尊重する啓発活動に努めるべきである。
また、学校において、氾濫する情報の中から有益情報の取捨選択ができるような教育を推進する必要がある。

女性にとっての暴力は男性にとっても暴力であるという視点を制度でも適用することこそが、本当の意味で平等を実現することになるという観点からすると、女性に対してであろうとなかろうと暴力は否定されるべきであり、刑法の傷害罪の適用など、暴力を規制する現行制度を適切に運用することが必要ではないかと。
問題が仮に有るとすれば、それは制度を使う行政、警察、司法の問題ということです。
という意味で、新たな制度立法を求めず、既存の制度を行政、司法が適切に使うとの基本的観点に立った部分については、専門調査会の「対策」は評価ができます。
ただし、風適法の立法目的は青少年の健全な育成のためであり、性風俗業の子ども利用を制限するために存在するのであって、男女平等が立法目的ではありません。単に大人の空間と子どもの空間を区切るためだけの法律で、女性蔑視を改善するための立法ではありません。
風営適正化法だけではなく、出会い系サイト規制法、青少年保護育成条例等はいずれも児童の人権保護が立法目的であり、女性の人権保護のための立法ではないという事実を踏まえる必要があります。
 
それにしても、「女性を蔑視し物扱いする」ような内容の雑誌を取り締まるべきという「対策」の提案ですが、女性にも性的・暴力的表現を含むコンテンツを創作したり、性的・暴力的表現を含むコンテンツを買って楽しんでいる人もいるという事実について、専門調査会は考察を欠いているように思います。
人間とは何か、人間性とはなにか、人間を蔑視し物扱いするとはなにか、もしくは人を人として愛するとはなにかということを表現するとき、性、暴力、残酷、虐待、凌辱、殺人、猟奇といった要素は避けて通ることはできません。
たとえば、 極限事例のひとつとして例示するなら、リリアーナ・カヴァーニの映画「愛の嵐」*1のように、「人間を蔑視し物扱いする」国家や社会の中では、性や暴力でさえ人間の個人性や人間性の源泉となり得るのだという芸術表現上の必然から性、暴力、虐待が表現される場合もあり得るのではないかと。
人間性を蔑視し物扱いするような表現」には多様な考え方があり、愛のカタチとしての性、暴力、虐待の表現が「表現」にとどまる限り、言論表現の自由のもとで容認されるべきです。

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