「落書き」事件判決/「何が」汚いのか

反戦落書き」に有罪判決 被告、法廷にスプレーまく
http://www.asahi.com/national/update/0212/020.html
反戦落書きに有罪 「建造物損壊に当たる」 (02月12日11:57)
http://www.shinmai.co.jp/newspack/2004/02/12/200402120100099707.htm
http://www.kahoku.co.jp/news/2004/02/2004021201000997.htm

この事件ですれど、いろんな論点を含んでいるので、いろんな評価が可能だと思うのですが、評価やコメントによってその人の人格が現れやすい「鏡のような事件」とでも言うのでしょうか。
「汚い/清潔」という単純な議論は、「汚い/清潔」の基準は単一ではなく相対的だという点において無効ですが、汚さの基準に触れてコメントしている例は、残念ながらあまり見当たりませんでした。
何にどんな理由で法の強制を発動させるかという本質的な法的議論ではなく、水に落ちた汚い犬を見てどう思うかというような感覚的不愉快の表明レベルに留まっているコメントを随所で見ます。
「自分が汚いと思っているものはみんなにとっても汚いし、汚いと思うべきだ」みたいな、あるいは「落書き」という言葉の持つ美観の基準の自明性を疑わない批判というか、汚いと思わない奴はやっちまえ的なコメントがあるとしたら、それはそのまま社会の病理として顕れている、と私は思います。
グラフティを描いた人には「表現したいこと」や「表現者としての主体性」というものが明確でしたが、じゃあ感覚的不愉快の表明レベルで被告人を批判している人は、いったいどんな主体性や自己の「内実」を備えているのか。
グラフティを描いた人への批判という形でかろうじて「表現者としての主体性」を獲得するという程度の薄弱な主体性しかないのではないかとの疑いを、私は抱かざるを得ません。
粛々と秩序に従い続ける薄弱な主体性しか持ち得ていないからこそ、共同体的な価値観や公権力への依存傾向が強まり、その依存を脅かす存在への排除として、水に落ちた汚い犬を見てどう思うかというような感覚的不愉快の表明が行われるという構図が見えます。

誤解する人もいるかもしれないので、はっきり書いておきますが、悪法も法ですので、グラフティを描いた人は描いた責任をとって「軽犯罪法違反」の刑に服するべきです。
言動において自由を行使した人は、その言動の責任を自らとらねばならなりません。あたりまえでしょう。
メッセージの正当性はそのメッセージを発した人の行為の責任性を失わせたりはしません。当然のことでしょう。

しかし、です。
たとえば、「平和に対する罪」といった問題に対して、社会全体の人道やモラルが低下している今日、「罪を犯すだけの価値あるメッセージ」というものはあると思いますし、自分の行為に責任をとるという覚悟のもとで「罪を犯すだけの価値あるメッセージ」を表現する自由というものもあると思います。
そして、自分が自分であることのモラルを守った結果として罪を犯すということもまた、ある得ることだと思います。
こう書くと誤解する人がいると思いますので断っておきますが、私はもっと落書きを描けとか罪を犯せと言っているのではありません。私はラスコーリニコフは無実だと言うつもりは毛頭ありません。
私が言いたいのは、人は自由であり、その自由に応じた責任を各自がとる社会が、成熟した近代社会であり、各自の自由に応じた責任を各自がとるという結果において社会の秩序は形成されるということ。
だからこそ、グラフティを描いた人はメッセージを伝える「方法」をもっと考えるべきであったし、グラフティを描いた人を批判している側も、「平和に対する罪」の問題を含め、社会全体の人道やモラルのバランスこそが問われなければならないのだ、ということを言いたいわけです。

ところで、今回の事件の判決理由は、「軽犯罪法違反」ではなく、「器物損壊罪」でもなく「建造物損壊罪」が適用されています。
警察、検察、裁判所が「建造物損壊罪」を適用したということ自体が、なんというかまぁ、「罪を犯すだけの価値あるメッセージ」というものを理解できない人たちの無知というか、法曹としてのモラルの低下を端的に顕わしているとでも言うのでしょうか。
たとえば具体的な話をすると、窓ガラス割ったとかシャッターを壊したとかは建造物損壊でしょうれど、「美観」を損ねたことを理由に建造物損壊罪を適用した判決は、刑法の法解釈が歪んでいます。「軽犯罪法違反」の適用が妥当でしょう。

軽犯罪法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO039.html

第一条  左の各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処する。
三十三  みだりに他人の家屋その他の工作物にはり札をし、若しくは他人の看板、禁札その他の標示物を取り除き、又はこれらの工作物若しくは標示物を汚した者

刑法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/M40/M40HO045.html

第二百六十条  他人の建造物又は艦船を損壊した者は、五年以下の懲役に処する。よって人を死傷させた者は、傷害の罪と比較して、重い刑により処断する。
第二百六十一条  前三条に規定するもののほか、他人の物を損壊し、又は傷害した者は、三年以下の懲役又は三十万円以下の罰金若しくは科料に処する。

壁に望まない文字が描いてあったとして、それをどう処理するかという解決の方法論にも疑問があります。
たとえば、刑事裁判という形で処理するのではなく、建物の管理者が民事で被告人を訴えて原状復帰を求めるとか、被告人を批判して議論を起すという方法もあったし、それ以外にもいくらでも効果的な方法を選択することもできました。
私だったら、「自分で消せ」「消す費用を負担しろ」と描いた人に言うか、美観を損なわないような作品にしろと提案するでしょう。
落書きを消すことはとても困難だと思い込んでいる人もいるようですが、それはデタラメで、落書きを消すのはわりと簡単です。

実験:「グラフィティーキラー」
http://park19.wakwak.com/~otto/raku/g-killer.html

いわゆる「落書き問題」の一番効果的な対処法って知っていますか?
描かれるまえに先に絵を描いておくこと。それが一番効果的です。
たとえば小学生に平和をイメージした絵を描いてもらうとかしておけば、その上にグラフティを描く人はほとんどいません。某市でそういう対策を実際にとって効果をあげた実績もあります。
他の効果的な選択肢がいくらでもあったにもかかわらず、法という公権力に依存し、刑事事件として刑罰を科し、しかも器物損壊ではなく建造物損壊を適用するというあたりに、この問題の異常性、公権力のアンモラルぶりが伺えます。

もちろん、方法論の選択のアンモラルさという点では、グラフティを描いた人も同様です。
どうしてその場所にそういう方法でしか反戦メッセージを表現しなければならなかったのか。もっと効果的な方法はいくらでもあったでしょう。
裁判になったことで逆の意味で注目はされましたが、それだけで終った感は否めません。
建造物損壊罪は非親告罪ですので、建造物の管理者が容認したり告訴しない場合でも、警察独自の判断で捜査でき、検察独自の判断で起訴できることになります。
結果的に、治外法権化し腐敗した検察に、さらに大きな「判例」という名の権限の武器を与えることになったわけですから、法解釈という壁の内側で野放しになっている司法官僚は、笑いがとまらないでしょう。

graffiti is not a crime!(「落書き」事件裁判支援サイト)
http://mypage.naver.co.jp/antiwar/graffiti417/

Art Crimes The Writing on the Wall
http://www.graffiti.org/
グラフィティの雑誌
http://www.graffiti.org/faq/zines/index.html

壁に書くならこういうのも見てほしいもんです。

パレスチナに作られたイスラエルの「壁」に描かれたグラフィティ

政治的言論としてのグラフィティ。
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関連ログ。
 

街から反戦の声が消えるとき
http://d.hatena.ne.jp/kitano/20050128#p2
立川反戦ビラ事件:検察が控訴
http://d.hatena.ne.jp/kitano/20050122
立川反戦ビラ事件一審判決:良心の囚人に無罪判決(その3)
http://d.hatena.ne.jp/kitano/20041223#p1
立川反戦ビラ事件一審判決:良心の囚人に無罪判決(その2)
http://d.hatena.ne.jp/kitano/20041219
立川反戦ビラ事件一審判決:良心の囚人に無罪判決、ビラ配布に可罰的違法性無し
http://d.hatena.ne.jp/kitano/20041218
迷惑防止条例改悪案:ビラを持っていると30万円以下の罰金
http://d.hatena.ne.jp/kitano/20041216

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