ビデオニュース:宮台真司氏講演 メディア影響論

東京(2001年1月31日)にて
元ソース
http://www.videonews.com/top/0102/miyadai.html
http://www.videonews.com/news/movies/asx/miyadai50.asx

(前略)
子どもの一部が日常的なフレームの中で非常に低い意識で人を殺せるようになっているというその理由は、われわれのまさに“足元”に及ぶような極めて根源的で複雑な理由に基づいています。
その理由を考察し対処しようとすると、われわれ自身の社会生活、自分たち自身のコミュニケーションのし方が問われかねないような非常に重要な問題です。
重要な問題、われわれが無傷であることを許さないような、そういう種類の深刻な問題をわれわれは考える“べき”なのでありますが倫理的には、ところが実際にはそのようなことはなされていない。その間に出てきているのが、一部の“稚拙な”法形成の動きであるわけです。
この“稚拙な”法形成の動きを見るとですね、「子どもが暴力的になったのは暴力的なメディアが氾濫しているからだ」(苦笑/宮台氏が誰かのモノマネをしながら言っているので会場も苦笑)という“馬鹿げた”原因論と、それに対処するにはどうしたらいいのかというときに「重罰化すれば犯罪を抑止できるはずだ」という“馬鹿げた”アイディアに集約されるわけであります。(苦笑)
私がこれから申し上げるようなことを言うのは、私は“恥ずかしくて”たまらない。
たとえば、暴力的なメディアが暴力的な子どもにするのかという研究は、過去80年間に渡って“膨大な”蓄積が存在して、その結果そのような考え方は否定されているのであります。
さらにですね、死刑、あるいは死刑のようなもの、あるいは重罰化によって殺人のような凶悪犯罪を抑止できるウンヌンカンヌンというようなことについても、膨大な国連刑事統計があって、実際のところどうなのかと言うようなことはもうはっきりしているわけです。
仕方ないのでお話をいたしますが(苦笑)、実は「暴力的なメディアが人を暴力的にする」ということを、「強力効果論」とマスコミ効果研究の伝統の中では申します。
「強力効果論」は、1920年代から実証が試みられてきましたが、実は残念ながら実証に失敗し続けてきました。
つまり「暴力的なメディアが人間を暴力的にする」ということは、証明できない。そのような証拠はいささかもあがらないのであります。
実は1930年代1940年代ほぼ20年間に渡ってきわめてインセンティブなマスコミ効果研究を行ったアメリカのクラッパーという有名な学者がいます。そのクラッパーが膨大な調査研究の末いくつもの膨大な本を書きましたけれども、その中で実証されたのは「限定効果論だけである」とこういうふうに言っております。
「限定効果論」というのは、一口で言えば「もともと暴力的な性質を持つ人間が暴力的なメディアによって引き金をひかれる可能性がある」ということです。
これはですね、「引き金をひくなら悪いじゃねーか」と皆さん思うでしょうが、いい悪いは別といたしまして、問題はその先にあるんですよね。じゃあその引き金になるからといって暴力的なメディアを規制したとして暴力的な性質を持った人間は引き金をひかれないかと言えば、そういうことは“まったく無い”んですね。マスコミがひかなければ別の者が単にひくだけの話し。単なる確率論的な問題です。
ですからクラッパーは、いくつかの本の中で繰り返し「人間が暴力的になる理由は、メディアの悪影響によるというような単純なもので考えることはできない。そのために必要な考察、調査研究はこれは膨大なものであって、そのようなものを強力効果論のごとき単純な図式で覆い隠してはいけない」というふうに言いつづけてきたわけであります。暴力的なビデオの研究も同じような結果を出しているわけですね。
暴力的なビデオが、これは2年間の長期にわたる調査ですけれども、子どもを暴力的にすると言う結果は得られなかった。ただ、カンフー映画を見てアチョーっていってロッカーを蹴るような短期的行動は存在した。僕もそうです。僕もロッカー蹴ってました。僕が空手部に入ったのは「燃えろドラゴン」の影響でしたけれども、そういうことは起こり得るかもしれませんね。これが学問的なデータです。
実は、クラッパー以降マスコミ効果研究が注目しているのは、「受容文脈論」というものです。引き金をひくひかないという話をしましたけれども、暴力的なメディアが暴力的な人間の引き金をひくのかというと、そういうことは“無い”んですね。
一般に、暴力的なウンヌンカンヌンに限らずメディアの影響と言うのは、「受容文脈」で変るというのが今日の学問的な常識です。
たとえば具体的には、テレビやゲームを享受する場合に、一人でやる場合、テレビでは一人で観る場合、知らない人と観る場合、友達と観る場合、家族と観る場合とでは、それぞれ影響が違うんです。一般的にいえば、親しい人間と一緒に観る場合では間接化され、独りで観る場合にはアブソーブルされて…要するに飲みこまれてダイレクトな影響を受けやすいという傾向があります。
理由は簡単ですね。人と一緒に観ていると、たとえばテレビを観ていてとなりにいる家族が「これはヒドイ番組だね」とか「くだらないね」とか「いい番組だね」というとすると、「おおこれはクダラナイのか」とか「これはいいのか」というふうに一端距離化されて「再定義」(リディフィニション)されるわけですね。
これがダイレクトな影響を阻む理由だと言うふうに考えられていますが、このように「受容文脈」によって一般にメディアは良い影響も悪い影響も変ってくるわけであります。
したがって、もし科学的な成果を踏まえたメディアの悪影響に対する対処を考えるのであれば、メディアの「受容文脈」、どういう情況で享受するのかというその情況をコントロールしなければならない。
どういうふうにコントロールするのが最も効率的であるのかというふうな提案をしていかなければならないわけですが、残念ながらこの日本ではついぞそういう提案がなされたことは無く、未だにメディア規制に賛成する側も反対する側も、「有害だから規制しろ」「いや有害じゃないから規制するな」というような議論をまだやっているわけであります。これは非常に素朴すぎる考え方であります。
「有害じゃないから規制するな」という理由は正しいでしょうか? これはちょっと口を滑らして次の段の方に入ってしまいましたけれども。
たとえば、こうしたことはもう以前から常識になっているわけですけれども、いろんな人に言うと「そんなことを言うけどだって日本以外の先進国ではもっとメディア規制しているじゃないか」という反論が出てきますね。
メディア規制は、政治的な言論統制を除けば、性暴力について1960年代の北欧のポルノ規制などに遡るわけですが、この性や暴力に関するメディア規制は、市民運動、社会運動の段階では素朴な悪影響論ですけれども、法形成の段階ではいろんな学問的なデータを踏まえて、素朴な悪影響論に呼応して法を作るというようなことは一般的にはありません。
具体的には、北欧やドイツでは、くりかえし「性的なメディアは性的な子どもにするのか」「暴力的なメディアが子どもを暴力的にするのか」という研究がなされてきて、肯定的な結論はあまり得られないんですよね。しかし否定はなされてきた。
じゃあ規制はどういうロジックでなされてきているのでしょうか? それは「ゾーニング」というロジックです。
つまり「見たいものを見る権利」の反対側。「見たくないものを見ないですむ権利」。あるいは子どもを保護監督する責任を負った側で言うと、「子どもに見せたくないものを見せない権利」ということですね。
これはもちろん憲法上の権利ということで、憲法のなんでも入れられる「幸福追求権」というものがありますよね、環境権入れたり肖像権入れたりするわけですけれども、その幸福追求権の中にこの権利を書きこもうじゃねーかというような動き。これが規制のロジックです。
わかりやすく言えば「不意打ちをくらわない権利」というふうに言ってよいです。裏返せば、見たいときにはちょっとコストをかければ見ることができる。見る権利でもあるわけですね。
このゾーニングのロジックによる規制は、悪影響ウンヌンカンヌンについての議論を必要としません。ま、ある種の“信仰”に基づいて悪影響があると思う人はその自分の認識に基づいてゾーニングのロジックを使って見なければいいし、子どもに見せなければいい。そういう考え方であります。
ところが日本では、有害だから規制しろ、いやそんなことは証明されていないから規制するな。この議論も実は、有害ウンヌンカンヌンについてのマスコミ効果研究の伝統とは別に、ゾーニングについての先進国の長い歴史をまったく踏まえていない“馬鹿げた”理論であると断言していいです。
たとえば、アメリカのVチップ導入の動きに対しては、ハリウッド、映画制作会社すべてがこれに賛成をしました。なぜ賛成をしたのか分かりますよね。現行水準の性表現や暴力表現を維持しようと思ったら、Vチップを導入して「住み分け」という形でこれを存続させる。これが最も合理的ですね。
したがってゾーニングのロジックは、表現の自由に基づいて何かを創ろう、訴えかけようとする側にとっても、メディアを享受する側にとっても合理的な考え方です。
こうした議論を国会で議論されていますか? 結構大笑いではありませんか? まったく議論されていない。
ちなみにですね、ゾーニングっていうのは日本でも本屋さんやビデオショップを見ればわかるように、過去10年間急速に展開してきました。とりわけ郊外や都会では存在していますね。
いまだにエロ本と一般書がごっちゃ混ぜになって置いてあるような本屋。あるんですよ。でも、どこにあるのかというと下町とか田舎に行くとあります。なぜあるんでしょうか? そういうところでは昔の面識っていうのが残っていますから、子どもが読んでたら「オメェ中学生だろ、読んじゃダメだよ!」とひっぱがされたりですね、読めないんですよ。
そういう昔ながらの共同性の残っている数好くないところではまだごちゃまぜに置いています。これはもうごくわずかしかありません。ですからそういう場所では地域住民のゾーニングに対する要求があってゾーニングがなされるようになってきていますね。
余談ですが、ということはですね、こうした空洞化に抗して昔ながらの地域や家族の共同性を維持できるという人間は、ゾーニングのロジックに基づく規制、あるいはゾーニングに反対し、「ごちゃ混ぜに置け!」「人がチェックしろ!」と言うのが正しい。西尾さんにはそういうふうに言っていただきたいなというふうに思うわけですね。(会場笑)
さて、今、有害性の問題についての学問的な考え方からゾーニングのロジックの方に話しへ移行してきましたけれども、全体として悪影響というものから別のロジックに議論の水準を移す必要があります。つまりそれはゾーニングというロジックです。
ゾーニングというロジックについては、どういうふうにゾーニングするとどういうのかというのは、これは資本の論理と享受する側、制作者、あるいは表現者の側の論理と三つからんでくる複雑な難しいですから、一律にここでわかりやすくここでぽーんと新しいフレームを作るという訳にはいきませんけれども、逆にいうならば一律に「無条件でゾーニングに反対」という論理はていられない性質のものです。
ですからですね、そもそも「有害情報」とかっていう言い方には問題があるわけですけれども、ある種のメディア乃至はメディア表現については、ゾーニングの理論に基づく規制はあっても良いという立場はとるべきであります。さもないと、表現の自由を錦の御旗にすべて反対と言うふうなやり方をしていると、有害情報論のような非常に稚拙なロジックで規制がまかり通ってしまいます。その辺の反対のし方はもう少し考えた方がいいと思っているわけであります。
似たような問題でありますけれども、例えば少年法重罰化っていうのがありますよね。もちろん少年法には主に情報を通じた「被害者救済」と言う立場と、「重罰化」と言う立場と、二つあるわけです。
「被害者救済」と言うのは、とりわけ80年代以降の非常に重要な先進各国の流れですからこれは当然肯定されて然るべきですけれども、いわゆる重罰化の側面は、16歳以下の少年でも「逆送」という処分を行う。これをどう考えるかということであります。
さっき言いましたけれども、重罰化によって少年を規制するベきだという議論はずいぶん前から保守論壇誌にいろいろ出ているし、同じようなロジックで実名報道をあえて踏み切るような出版社もあるわけです。
これについてどう考えるべきかという事についてお話します。
一般には、少年に対して処罰を重くするべきだという考え方には三つの立場があります。三つ以外の立場はありません。すべてこのどれかに入る。
1、「抑止効果論」。重罰化によって犯罪を抑止するという立場です。
2、「感情的回復論」。重罰化によって、あるいは重罰化にしなくては感情的な回復ができないと考える立場。感情的な回復を行うのは、被害者であり社会であります。
3、「自己責任論」。「自分の尻をぬぐえ論」と言ってもいいですけれども、オトナが自分でやったことに尻をぬぐう以上、子どもにだって同じように自分の尻をぬぐってもらおうじゃないかという立場であります。
三つとも簡単に論破できます。
まず一番目の「抑止効果論」。国連の犯罪統計を見ればわかるように、殺人犯のような凶悪犯罪は重罰化によってこれを抑止したり減らしたりすることはできません。死刑の導入によって殺人を減らした国や州はひとつもありません。
しかし、一般的に重罰化が犯罪が抑止に効かないということではなくて、、とりわけ性犯罪と軽犯罪についてはこれは重罰化が効くわけです。その理由についてどう考えられているかという事についてですけれども、単純です。
人殺しは激情にかられた前後のみさかいの無いものか、あるいはつかまらない自信のある計画的なもののどちらか、であることが多いであろうと。したがって自分が捕まって重罰になるかもしれないという想定をしなくて済むものが多いのだろうと。
ところが性犯罪、軽犯罪の類は、日常的なフレーム枠の延長線上で行う犯罪であるから、もしそれをすれば社会的な地位が無くなるぞと言うふうに言われれば球に犯罪が減る。(2000年の)11月20日に通ったストーカー防止法以降、ストーカー犯罪は非常に減っていますけれども。これは面白いことに95%前後男の人がストーカーになっているわけですけれども、男の人女の人のことは後でやりたいですが今日は時間が無いですが、引きこもりも八割男だし、キレる少年も九割男ですね。男の頭がおかしくなっているんですけれども。もう一度言いますけれども「抑止効果論」というのは、非科学的な立場です。
次に二番目の問題。「感情的回復論」の問題。被害者の感情的回復あるいは社会の感情的回復と言うのは、法社会学的にはきわめて重要なアウトプット、無視してはならないと言うことです。感情的な回復ははかられなければならない。しかし「いかにしてか」ということですね。重罰化によってそれははかられなければならないのかどうか?
ごく少数のニュース番組、「ニュース23」、これは僕の知り合いのスタッフが何人かいますけれども、「ニュース23」だけが日本では報じていましたけれども、僕はいろんなところで言っていました。
90年代に入ってから先進各国では、たしかに被害者あるいは社会の感情的な回復をはかろうという動きが一般的になってきたけれども、それは「重罰化」によってではないです。「コミュニケーションを通じた感情的な回復」です。
アミティというアメリカの犯罪経験のある人間が中心となったNPOがやっている運動。彼は一方で死刑廃止運動をやりながら、一方で死刑が廃止された州などで感情的な回復ができずに苦しむ犯罪被害者と加害者とのコミュニケーション可能性を判決後、つまり収監後にはかることによって非常に大きな成果を上げてきています。これはいくつかのドキュメンタリーで既に紹介されているはずです。
さらにドイツは進んでいて、収監前ないしは判決前の被告の段階である人間と犯罪被害者とのコミュニケーションチャンスを設ける。具体的にいうとボランティアの可能性を保証することでですね、その犯罪加害者であろう人の活動に対する犯罪被害者の評価が判決に影響を与えると言うシステムも採用されているわけです。
そうした動きの中におすいみてみると、「重罰化しないと回復できない!」という議論の“粗暴さ”というか“頭の悪さ”というか、そうしたものにほとほと頭を抱えてしまう。いったいどうなっているんだという感じです。
感情的な回復は重要ですが、だとすればなおさら「重罰化によってだけ」っていう議論には実りがまったくありません。
三番目の問題です。「自己責任論」。これも簡単に論破することができます。
近代的な責任概念においては、責任をとることができる「責任主体」は、ある性質を持っていなければなりません。それは現実的な「選択可能性」。つまり、“選択能力”を持っていなければならないということです。
具体的にいうと、例えば80年代に89年に子どもの人権条約が国連で採択されまして、子どもに「自己決定権」を認めるべきたと言う議論が実りましたよね。80年代を通じてなされた子どもの「自己決定権」を認めるべきだというこの同じ時期に、英米を中心にして少年法の重罰化が行われたわけです。つまり、少年にも責任をとらせようという動きが一般的になったわけです。これは表裏一体です。
子どもに責任を問うためには、子どもに「自己決定権」を保障し支援しなければならない。子どもに「自己決定権」を与え支援する以上、当然のことだけれども自分でなしたことについては“自己責任原則”を一般的にそれに基づいて処遇されざるを得ないということです。
ですから「自己責任論」は、子どもに十分な自己決定権を保障し支援すると言う社会的な枠組に人々が合意し、そういう具体的な制度としてできつつあるという状況であれば条件付で賛成することができますが、しかし日本はどうか。
保守論壇を見るとですね、右も左も滅茶苦茶なんですけれどねこの点で言うと、「少年法は重罰化だあっ!」とか言っている人間を見ているとですね「子どもに自己決定権はあるわけがなぁい!」と言っているんですね。滅茶苦茶。何を言っているのは私にはわからない。この人中学校に入りなおしたほうがいいなと思います。責任と言う概念についてまったく無理解です。
これはでも、浅野健一さんなんかと言い争いになったことがあるんですけれども、左側も似たような問題があるんですよ。
少年法が従来の「保護厚生主義」がとってきた理由は、子どもには成人並の人権がないという前提があるからです。したがって、子どもに対して現実的な選択可能性を保障する必要はないし、そういう能力の上昇を支援する必要は無い。そのかわり子どもが何か起こしたら子どもの周りにいる人間たち、あるいは社会の責任である。したがって子どもが何かやったら重罰化にしたりするんじゃなくて周りの責任を持っている人間あるいは社会が「保護厚生」の人に当らなければいけないというのが、従来の日本的戦後の少年法の考え方です。
したがって少年の実名報道、顔の報道は、少年の人権侵害ではありません。もしこれを人権侵害だというなら、まさに“成人”の名前を出すことが人権侵害なんですよ。
そういう立場をとっているいわゆる司法における「福祉主義」というシステムをとっている国は北欧にはあります。少数ですけれどもね、世界的に見れば。
人権侵害だと言うのなら、“大人も”人権侵害です。むしろ子どもに自己決定権、人権を保障し、その分自己責任でふれまわってもらおうじゃないかとする立場からすると、少年法重罰化と合わせて場合によっては子どもの顔や名前も出すことがあり得る。なぜならば成人も出すことがあるからというロジックを使わなければだめです。この辺も左側は滅茶苦茶です。
子どもに成人並の人権を認めよというのであれば、もう選択肢は二つしかないんですね。今言いました。ひとつは少年も成人も一括して名前や顔出しを人権侵害だとやるか、成人が名前を出せるのなら少年も名前や顔を出さなければいけないという立場か。どちらかしかありません。
だから何度も言ったように、こんな初歩的なことを言うのは恥ずかしくてならないんです実は。ということは日本では右も左も滅茶苦茶なんです。ですから滅茶苦茶な議論が起こっているわけです。
さて次に話題を展開いたします。
僕はさっき言ったように少年法重罰化についても世論の六割七割が賛成しているし、社会環境対策基本法、有害環境規制についても世論が八割九割が賛成しているのは皆さんがご存知の通りです。
しかしさっきちょっと言いましたが、世論の評度(インセンシティ)、どれくらい考えぬかれてたものであるのかというと、これはなかなか面白いデータがあります。
僕は「アクセス」というTBSラジオの番組で「バトルトーク」というコーナーに良く出ています。それも僕が呼ばれる時は、世論の動きが僕に敵対するものが圧倒的である場合に呼ばれるわけです。
事前に電話集計とかでも、たとえば少年法の時でも出ました、有害環境規制のときにも出ましたが、「宮台さん、七割八割が重罰化しようって言っていますよ」「有害環境規制しようって言っていますよ」という人間だけを僕に電話をつないでですね、バトルトークを30分間ですね。
さて、面白いことですがこの番組の30分のバトルトークが終わるとどうなるでしょうか? もう少しあるかな、40分ぐらいでしょうかバトルトーク。番組を聴いた人の世論は逆転するんですよ。番組を聴いた人だけでいうと、7対3とか8対2だったのが、6対4ぐらいで僕の側の議論が押し戻すんです。
これはどういうことかというのは皆さんわかりますよね。つまり、…あまり考えていなかった。(会場笑) 
「悪い奴がいっぱい出てきたから重罰化すればなんとかなるかもしれない」「そうかもしれないなーっと思った」「こんだけ少年たちが悪くなったのはメディアでネプ投げなんかしているからだ」「そうかもしれねーなー」っていうふうになんとなくぼんやり思っちゃったりする。その前に皆忙しい。なぜ少年が犯罪を起こすのかなんてことを私のように調べたり考えたりする余裕と言うか、ヒマのある人間はいないわけですから、ぼんやりとそう思うのは仕方ないわけです。
しかし、懇切丁寧に話をすれば、バトルトークなのでディベートみたいになるんですけれど、ちゃんとわかりやすく説明すると相手は納得するわけですね。その一部の収録がここでなされています。(と宮台氏の最新刊を見せる) どう押し戻すのかという押し戻し方をここで書いています。
詳しい話はしませんけれど、多くの方はある意味思い込みでなっている。
たとえば、「カンフー映画を規制するべきだ」っていう若い人が出てきたんですね。なぜかと聞くと「なぜなら自分はカンフーを使ういじめっ子たちにカンフーのマネでいじめられたから」と。だからカンフー映画は規制するべきだっていう。「それでいったら僕はボクシングする奴に殴られたことがあるのでボクシングを規制するべきでしょうか」って言ったら、「ボクはボクシング好きなんでスポーツはやっぱりいいんじゃないでしょうか」と。「でもボクシングを題材にした連ドラでは暴力的だからヤメロという電話が殺到しているけれどボクシングを素材にしたドラマもやめましょうか」と。「えーっそれは…」となってくるわけですね。
「それじゃあ助け舟だしますがあなたをカンフーでいじめたイジメッ子たちはどういう人たちでしたか?」と。「田舎のPTAの会長のドラ息子でわがまま放題に育った奴らなんですよ」とか言ってるんですね。「だったらもしカンフー映画が禁止されていたらその人たちはあなたをイジメなかったの?」ってきいたら「たぶんイジメたと思います」って認めてね。(会場失笑) だからそういうことですよね。簡単なことなんですけれども。
「だったらカンフー映画規制しようとわがまま放題に育った子どもがいるんだって問題が棚上げされちゃってあなたにとっても問題が多くなっちゃうのでは?」と言ったら、「そうか」と。
その程度のものなんです、多くの場合世論というものは。考えぬかれてはいないんです。
しかしですね、僕はここでこう思うわけです。「アクセス」のバトルトークという3、40分の番組ですけれど、たった3、40分やるだけで聴いていた世論は逆転します。同じようなことで「ニュース23」に感情的な回復を重罰化によってはかる“のではない”社会の水生を紹介して欲しいということを言っていましたけれども、それを紹介していました。世論調査はしていませんけれど、たぶんそれを見た人は「あっ」と思ったと思います。゜なんだ自分が思っていたことは考えが足りなかったかもしれないな」というふうに思ったと思うんです。
もしわれわれが日常ぼんやりと思っていることについて再構造化、再定義をせまるような番組が多ければ多いほど、このような漠然とした、しかし規模的には圧倒的な世論形成はなされなかったはずなんですよ。わかりますよね。実際にはそういうことはなされていない。
草野厚っていうおかしな奴が出てくる番組では「重罰化しなければ少年たちはわがまま放題」なんてわけのわからないこと言ってるんですね。もうトーヘンボクばかりでございますけれど、そういうテレビが世論形成をしてしまうんですよ。
ヒマ人じゃない人が「そうかもしれないな」と思うのは、番組を見てしまえばいたしかたない。これはメディアの責任が非常に大きいということを意味します。
だからボクはこのあいだ宮崎さんに言ったんですが、「チマチマ論壇誌なんかで書いてないでメディアに知り合いがいるなら働きかけて番組つくらせろコラ!」って言いましたけれども、論壇誌なんか誰も読まないんだから。いいですか。そんなもの書いたってムダなんです、はっきり言えば。
ここに来てわたしがお話しているのは、論壇誌に書くよりも出版労連の組合員の方々などにですね、ここにわざわざ足をお運びくださる方にお話をする方がはるかにいいかと思ってこうやって話をさせていただいているわけですが、もう一度言いますがメディアの責任は非常に大きいです。
僕は思うんですよ。十年前に和歌山県の変な主婦が「有害コミックが子どもをダメにする」という運動を始めてですね、「その子どもは?」って聞いたら「30代」なんですけれども(笑)「なんなんだお前は?」っていう問題はさておいて、これは規模が全国化いたしまして、テレビではそれこそ草野厚みたいな奴が「やっぱりこういうメディアは規制しなければなりませんよねー」と言いまくっているんですよコメンテーターを始めとして。
あのような態度の、エロ系暴力系マンガに相当するようなものとテレビとは違う勝手に思いこんでいるんですね。自分に関係ないと思うものは「規制しろ!」と。「こういうマンガがあるから若い人はダメになるんですね」とか言って、同じロジックが自分に適用されているだけなんですよ!
だから僕はテレビ屋さんに対しては「ザマーミロ!!」「徹底的にヤられちまえっ!!」って言ってるんですよ。だって自業自得でしょう? そう思いませんか? 今新聞がそうですよね。新聞は「青少年社会環境対策基本法なんてうちらはカンケーないから」と本気で反対はしないわけですよ。
しかしまぁ、「そのうち見てれよ」って感じですよね。機を狙って大新聞の「記者クラブ制度」と「再販制度」によって守られた権益を“ぶっ潰す”ための活動をいろいろ準備しているんです。これは非常に皆さんの公共的な利益に関わる問題ですが、みなさんが記者クラブ制度の弊害によって公共的な利益がいかに侵害されているかということを、ぼくがあえて言うまでもないわけですね。
警察に完全に貼り付いている番記者はですね、「内閣機密費? なに今ごろ言ってるんだコラ」って感じじゃありませんか? そんなものみんな知ってるわけですよ。そんなものにつっこまない。なぜかというと、記者クラブ制度があるからですよ。
記者クラブ制度をやめろ」と言っても、連中は既得権益があるからやめられませんね。だから僕は以前から「再販制度」をやめていくというか、これをつぶすしかない。「再販制度」が潰されればですね、従来の記者クラブ制度の枠の外でスクープをやることによって部数を伸ばす新聞が伸してくるでしょう。競争原理が働くことによって記者クラブ制度と言うのは自動的に瓦解します。だって諸外国を見るとそうなんだもの。
再販制、全面的に廃止を私は主張します。
どのような他の利益があったとしても関係ありません。最優先順位。記者クラブを潰すために再販制度をつぶすべきだと考えていますが、まあそんなことはいいや。とにかく新聞もひどい情況です。
いずれにしても、そのようなかたちでわれわれメディアの側は非常に稚拙な「帰属処理」をしてきた。「帰属処理」というのは、なにかわけのわからないことが起きたらとりあえず「誰かのせいだ!」というふうに吹きあがることによって「カタルシス」=感情的な浄化を獲得するという「帰属処理」を行ってきました。
その場合多くの「帰属処理」は、自分に帰属するんじゃなくて、カッテングアウトオペレーション、「切断操作」と言いますけれど、自分と関係のない者に帰属して胸をなでおろす。こういうことをやってきたわけです。
「こいつら鬼畜だ」というのもそうだし「こいつら病気だ」というのもそうです。「自分は鬼畜ではない」しあるいは「自分の子どもは病気ではない」、「関係はない」というわけです。
ですから、病名探索が行われる理由も、そういうエゴイズムが背景にあります。
「この犯罪を起こした人間は正常か異常かということでいえば、あるいは正常か病気かということでいえば完全に正常です。まったく病気ではありません。でも平気で人を殺します」、こう言われたら多くの人間は「うちの子もまったく普通で正常だ、ということはアブナイかもしれない」とか言って頭を抱えちゃいますよね。そういう番組を作ればいいのですが、作らないわけです。
この辺になると、これは私の個人的な恨みつらみではありませんけれど、以前ブルセラから援助交際に至るブームが93年から96年までありました。NHKスペシャルって言う番組枠で、二度これについての特集番組が企画されて、途中の段階を全部通って、一番上の段階、部長会みたいのがあるんですがそこであるトーヘンボクが一人反対したせいでですね全部つぶれて実現しませんでした。
もともと僕がブルセラについて世に広めたきっかけになった朝日新聞の記事、これもデスクが「これは人々を不安にするからイケナイ」って言って、僕に依頼してきたくせにこの記事をつぶそうとしたという経緯があるんですね。
朝日新聞の場合についてはてすね、村山君っていう今「論座」にいる僕より四歳ぐらい下の子が徹夜でデスクを説得してこれを載せました。載せたおかげでそれまでは藤井良樹君がエロ本とかに書いていたブルセラネタが(笑)マスコミに大浮上したわけでありますが、もしも村山君っていう記者がいなかったらどうなっていたんでしょうねぇ。
基本的にはデスク水準の連中が、メディアを覆い尽くしているわけです。従来のわかりやすい「強者−弱者」というフレームワーク、あるいは「ここに悪人がいてその悪人は自分とは関係がない属性を持っていて、その属性を持たない自分を脅かす」というような図式。
「『ブルセラ援助交際、売春、あんたな娘もやってるんだよ。奥さんもやってるかもしれないぞ』なんて記事を載せられるわけがない!」と。なに言ってるんだよ、だからこっちは載せろとこっちは言ってるんだよ! という問題なんですよ。
でNHKはまったく同じロジックで「これはあまりにも反社会的すぎる」と。僕は、援助交際している女の子をいっぱい紹介しました。したら、もったいないからといってその子たちを使ってポケベルの特集番組を作ってましたよNHKで。(笑) ずいぶん話題になった番組ですけれども、あれは僕が人間を仕込んでます。でも「もともと援助交際で仕込んだんだぞコラ!」って問題でありますが、これは結構笑えると思いませんか?
ポケベルは人畜無害。いろいろ社会的にはいろんな後々につながる重要な問題を含んでいますけれどね、当時はベルの問題よりも売春のほうが重要な問題だったと思いますけれども、これがメディア全体でもっていることは否めない。
切断操作」とか「帰属処理」といま僕が申し上げたような問題と言うのは、実は報道の現場で、あるいはメディア制作の現場で無意識に、あるいは意識的にたえず働いている。従来のわかりやすい。逆にいえばわれわれ(メティアに携わる者)が人畜無害な場所にいられるような、そういう構造や情報ばかりが表に出がちで、そうでないものは表に出ないというか醗酵されて別な形になって「帰属処理」され「切断操作」されたうえで出てくるというかたちになっているわけです。
先ほど申し上げましたように、なぜ少年は動機不明な凶悪犯罪を犯すのか。「凶悪なメディアが増えているからだ」。そうですか? そのような図式をずうっとメディアが反復してきたんです。
ですからそういうメディアが、まさに刃が自分に向いて、あるいは吐いた唾が自分に降りかかってくるというのは、文字通り「自業自得」であるわけです。
で、冒頭に申し上げた意味はわかりますよね。こういうふうにここ二年間、広くとって五年間、こうした(メディア規制の)動きが喧しくなった背景には、メディアの責任があります。
要所要所で別の選択をメディアが果たすことが出来れば世論形成はちがっていた可能性があります。その証拠に、個別の番組では結論を押し返すことができる。これは僕が経験的にわかっているからです。そうした世論形成をメディアが怠ってきた。その結果、まったく同じメカニズムが自分に向いているだけの話です。
こうした問題に踏みこんだ上で、実際にこうした法形成の動きに対する対抗運動は、対抗って言っても単に一か零かというふうに対抗するのは無意味です。僕が盗聴法の時に言ったのと同じですね。実際にメディア規制をするのであればゾーニングのロジックに基づいてアクセス権を条件を満たしたものには保障する、条件を満たさない人間にはアクセスし難いようにするという、そういうメカニズムを作ってくれ。これには賛成です。
少年法の重罰化も、条件付で賛成です。さっきのことを裏返せば、条件付で反対。もし子どもに子どもの人権条約に基づく自己決定の支援、これはメンタルな部分だけではなく制度的な支援が初等教育の頃から全面的に行われるのであれば、その成果が出てきた段階で少年を、あるいは青少年と呼ばれる段階、13、14歳から18歳未満の人間たちを今より重罰化するということはあり得ることだと思っています。
このように条件を吟味する。どういう条件があれば規制できるのか。どういう条件があれば重罰化できるのか。あるいはどういう条件が無いのでどのようなことをやってはいけないのかというようなことについての“吟味”を行う必要があります。
そのような吟味は、いいですか、皆さんがあらためて考えなくても、ちょっとメディア研究あるいは学問的な世界を見渡してみれば“膨大な蓄積が既に有る”んです。その“膨大な蓄積を参照しない”という“怠慢”だけが、メディアの側にあるんだというふうに申し上げたいわけであります。
……(時計を見て)けっこう濃密にしゃべったので短時間で僕にしては(笑)すっきりと…。(会場笑)
僕は国会でロビー活動をした経験がありますけれども、たぶん奥平(康弘=憲法学教授)さんなんかもおっしゃったかもしれないけれど、法形成に関わっている市民の方々も議員さんの方々も、良くも悪くも、悪くもというのはやっかいという意味なんですけれど、“善意”なんですよ。善意。
誰もがその“善意”を疑うことが出来ないというところに非常に大きな今般の問題があるわけです。
しかし、逆にいえばですね、たとえば児童買春児童ポルノ禁止法案についてはもともとの法案をずいぶん書き換えることにずいぶんと貢献しましたけれども、提案している人の善意を否定しているわけじゃない。
しかし、「こういうふうにしたら学問的にこうなりますよ」と、「もしそういう意図に基づく法形成であればこうするといいですよ、諸外国ではこうなされていますよ」と懇切丁寧にお話していくと、議員さん達の反応は「えええっ!! 知らなかったあああっ!! だって誰も言ってくれないんですものぉーっ!!」みたいな反応になるわけですよ。
で、実はここにですね、われわれの社会が持っている政治システムの問題があるわけです。
アメリカの場合はですね、議員さんのしたに政策秘書が何人かついていて、各政治家には必ずシンクタンクがついているわけです。
たとえば、ジョージ・ブッシュのように、本人がボンクラでも背後に分厚いブレーンがついていて、マトモなことしか言えないようになっているんですよ。
日本の政治家も、本人はボンクラでもいいですから、本当は良くないですよ、でも当人は当面はボンクラでしょうからその政治家の背後に緻密な政策論議が出来るブレーンがちゃんとくっつくようなそういうシステムを、本来ならば採用するべきなんです。
ところがそういうところに至るにはずいぶんと時間がかかるかもしれない。だからその部分、マスコミによ世論形成の側にかなり責任がかかってきてしまう状況にあるし、さらに、僕もそうですが、単にメディアでやってこと足れりというわけではなくて、できたらそういうビデオテープを5本6本持っていって「見てくださーい!」とやったらいいんですよ。
善意の方が多いので、学問的な蓄積を背景にした正しい分析を見れば「ああっ、ガーン、全然自分の思っていたのと違ったわい」ということになるはずなんですね。
そういうシステムが政治の側になかなかできないので、メディアの側にそういうことをやる責務が出てきたという問題があります。
次にそれとの兼ね合いですが、メディアの側に昔からふたつのことを言っています。
ひとつは、僕はBBCのドキュメンタリーに何回か関わってことがありましたけれども、僕はイギリスの国営放送を参考にするべきだと考えています。
国営放送には社内オンブズマン、何人か弁護士がいて、年間2、3千本をビデオチェックしてネガティブチェックをしています。これは報道被害を防ぐためのチェックをしているわけです。これらのネガティブチェックだけではなくて、ある種のポジティブな動きもしているわけです。
BBCのドキュメンタリー番組を見ると、リサーチャーっていうクレジットが番組に終りに流れてかなり高度な専門職の人間がアイディア形成に関わっているというのがわかるわけです。日本でリサーチャーっていうとクイズ番組のアイディア出した人達っていう下請の人間たちですけれど(会場笑)、違う。
今申し上げたリサーチャー。これはマスコミの世論形成の流れで「受容文脈論」という重要な仮説の一つを出したランハンストと言ったことなんですね。彼は「ミドルナーが必要だ」と言っていました。
どういうことかとわかりやすく説明します。
今のワイドショーとか見ると、番組のおさまりが悪いので何かエライ先生に聞きに行こうといって小田進とか町沢静雄とか福島昭とかに行っちゃうんですよ。で、それを見た精神科医達が頭を抱えているんで、「うっわーなんて奴の所に行っちゃったんだあああっ!」と。
いいですか、ワイドショーにとってはできるだけオカシナことを言ってくれるコメンテーターが言い訳です。ネタが尽きてくればいいことで、奇矯なことを言う精神科医が珍重されるという傾向にあるわけです。
こういうモノをチェックする。チェックするだけではなくて、精神科医に話を聞くなら、精神医学界における学説の分布はこうなっていていま最も優秀だと考えられている人間はこの人間である、次にこの人間であると。あるいは立場によって優秀な人間は違うかもしれません。この立場ではこれ。あの立場ではあれ。社会学者に聞くのであれば「宮台なんてどうだろ?」とかそうじゃなくて、学会で評価されているのはこれ、学会では評価されていないけれど一部でカルト的な人気を得ているのはコレと(爆笑)、そういう業界的な事情をよく知った準専門職の人間が取材活動に関わる。
とりわけこれは報道だけではなく、特にワイドショー。そういったものに対しては非常に重要なファクターです。社内オンブズマンを抱えるということと、社内の高度な専門職としてのリサーチャーを抱える。それによって今までのまったくデタラメな報道、デタラメなコメンテーターの言うデタラメな世論形成を阻止したり抑止したり、あるいは正しい方向に世論を誘導する責務がマスコミの側にあるだろうと考えています。
誰かに話を聞きに行く時、ナントカ大教授ナントカカントカっていうのがテレビだけではなく一般に活字メディアの中にも見られます。その時に、一体誰に聞きに行くのが良いのかという吟味を行うシステムは、いまのところ日本のマスコミにはありません。
なんかテレビに出ていてシューって行って、コレはこの人かと。そして奇矯な人ばかりが出ることになるわけです。「脳に悪魔がいる」とかですね。(会場笑) 滅茶苦茶ですね。これは笑い事で済まないことで、そういうシステムをつくることがメディアの側が作ることが必要です。
最後に、例えば、日弁連を中心とする「表現の自由」を錦の御旗にするようなところが、この間の事情に鑑みるに、政府内に独立の審査機関を設けてそこで検討したものについてある種の指針を出すということが必要なんじゃないかということになりつつあるわけです。
みなさん、さっき言ったように表現の自由が錦の御旗としてもうまったく通用しないということがおわかりいただけると思うんですけれども、具体的な状況認識を新たにしていただきたいと思うわけです。
今、これだけの人間が、あるいは日弁連を含めて政府内にある種の規制のメカニズムを作る。単なる従来の業界の自主規制団体の規制だけでももう足りないんだという議論が出てきた背景には、深刻なメディア不審、とりわけテレビなんですが、テレビ不審があるわけです。
もちろん、人々はあまり頭が整理されているわけではないから、聞かれれば個別の番組についてこの番組は良くてこの番組はいけないとかって言っているのかもしれないですけれども、実際にはそういう段階はもう超えていて、多くの人間達は「メディアにはなかなかマトモなものが無い」という感覚が非常に広がっている。
だから、「まかせておいてもどうにもならないのだから、だったら業界に外圧をかけるしかない」「外から規制していくしかないんだ」という考え方がですね、一部の世論を増幅しつづけているということを忘れていただきたくないんです。
この世論の動機形成は、残念ながら一部正しいわけですよ。
特にテレビなんかを見ればわかるけれども、テレビ製作者はほとんど“禁治産者”に等しい。(会場笑) まかせておいてもどうにもならない。だから「徹底的に一回しめあげてやったらいいんじやないか。ザマーミロ」とさっき言いましたけれども、そういうことが本気で思えるぐらい自浄能力が無い。
僕は、放送番組向上委員会というところにいて、テレビの、特に民放の経営陣と接触する機会もあるわけですが、彼らにこういうふうに言っているわけです。彼らがどれだけ理解しているのかわかりませんが。
いいですか、「ネプ投げ」なんてどうでもいいんですよ。なに見たっていいじゃないか別にパンツ見えようが。あんなの“超オッケー”ですよ。僕もよく観てましたよ。「オッケェー!!」(笑)
問題は、たしかにそういうところに番組批判が集中しているけれど、問題はそこには無いんです。そこじゃなくて、全体としてカウンターバランスのとれるような「質の高い番組」が無いんですよ。
したがって報道被害とか俗悪番組をチェックするネガティヴチェックだけではなくて、「良質な番組」。たとえばさっき言ったようなメディア悪影響論が世論を支配していますが、「実際、暴力的なメディアや性的なメディアに悪影響があるんでしょうか? 克明に考えてみましょう」というような番組があってもいいじゃないか。そうすると過去の八十年間の蓄積がドバーンと出てきて「そりゃ暴力的なメディアに接して子どもが暴力的になるなんそんな安易なことがあるはずないなー」っていうあたりまえの常識が確認されるはずなんですけれどもね。
つまりそういうネガティヴチェックだけではないボジティヴに質の高い番組を作るような動機付けの装置を必要としているし、特にそれを経営陣が“危機管理”の観点から組織していくという戦略的な思考が必要だ、とそういうふうに言っているわけです。
いざという時にぶっ叩かれて「こいつら禁治産者だからヤっちまえっ!」っていうふうに言われないように、「いやメディア悪影響論を仰る議員先生、実はわれわれはこういう番組を作っているんです」というふうに、アリバイでもいいですから、そういうものを示せるような状況になっていなければだめなんですよ。
でも単なるアリバイだけでは足りなくてですね、チャンネル全体のバランスとして俗悪番組もあるけれどとってもいい番組もあるんですというバランス、それを世論が納得するような状況にあれば、今日のような深刻なメディア不審はありません。
いざ事が起こった時に世論が完全にメディアバッシングの側に回らないような危機管理を行う責務が経営陣にはあるんですね。
これはですから資本の論理を裏切るものではありません。まさに資本の論理に則って危機管理を遂行すると言う観点から、視聴率とは無関係に一定の常識で高度な番組をたえず世論に提供する、そのことによって公共的な使命をちゃんと果たしているいう証拠を提示できるように作っていく必要があります。
でもそういう考え方をしている民放の経営陣は一体どれだけいるんでしょうか? 派閥順送りの人事ですからそういう頭を持った人はほとんどいないと思いますが、「だったらヤられちまえっ!」っていう気持ちがふつふつと沸いてくるのがなかなか止めることができません。
あともうひとつこれはどこかに書いたことがありますが、メディアの公共性という事について、マスコミ人の間に非常に大きな勘違いがあります。
僕はかつて援助交際についてのいくつかのテレビ番組に関わりました。最も感心したのはBBCの番組です。BBCの番組にはもちろんいっぱいのリサーチャーがくっついて、単に興味本意の番組ではなくて、僕がいったい番組の中で何を話すのかということをたえずくり返しくり返し議論のセッションの中で聞くわけです。
僕の意見に揺らぎが無くて分厚い実証的データ乃至は思想的な背景、学問的な背景があるんだということにきっちり自信を持ってから非常に高度な番組を作るということをやるわけです。
僕は思ったのですが、「こういうふうなかなり踏みこんだ高度な番組は難しいから万人が見てわかるというふうにはいかないんじゃないか、日本ではこういう番組は作れないんじゃないか」ということを言ったら、こういうふうに言っていました。
たとえば準国営放送のNHKでは、「皆様のNHK」。ちょっと踏みこんだ分析をした番組を作ると、「子どもが見てわかるような番組かこれは」なんて滅茶苦茶な事を言うんですね。それが公共性なんですか?
BBCの方はこう仰っていました。「もしわかる人が500人しかわかる人がいない番組だとしても、その500人の人間が何かを認識すること、これが社会にとって絶対に必要な場合がある。それも公共性だ」と。
すべてのことがすべての人間が理解するべきだというようなある種のポピュリズムというかデモクラティズムの変形というか濫用の反対ですけれど、社会の中ではある意味で高度で複雑なので万人が理解するというわけにはいかないが、しかしこの程度の高度で複雑なことをせめて500人には理解しておいてもらわなければと、それを作るのが公共的な使命だというふうにイギリス人のスタッフ達は言っていました。感激しましたよ。流石だ、と。
でNHKの人にその話をしたんですよ。そしたら「そーですねー。ムズカシーですねー」だって。(笑) これがわれわれの民度なんです。
というふうに考えみると、これはまた元に戻りますけれども、従来型の国家権力、あるいは権力を傘にしたゴリ押しが背景にあると言う問題ではなくて、ほとんどわれわれが自分で自分の身に降りかかることを準備しているといっても良い部分があります。
これは昔のような文化的ヘゲモニー論のような流行り廃りの図式でこうした力学的現象を分析することはできません。ということで問われているのはわれわれ自身のあり方なんですね。われわれ自身のあり方で流れを変えられたはずです。
これからも論理的には変えられるはずです。どういう戦略が有効なのかは皆さんが知恵を絞って、議論して考えていかなければなりません。そうしなければなりません。
僕自身は、こういう場面を含めてメディアの制作サイドの方々に今までと違う努力、動機付けを持って頂きたい。特にテレビについてはそうなんですけれども、そうした動機付けを持つことがメディアが資本論理の中で延命するために“すら”、危機管理という観点から“すら”も必要なんです。
そうしたことがまったくなおざりにされたまま、メディアどころが日本まるごと沈没しつつあるような、ちょっと遠く離れた人間から見れば「ザマーミロ! 自分で船の底に穴ほってるじゃんよ」みたいな風景にしか見えてこないのは、あまりにも残念なことであります。
私の話は以上で、あとは質疑にさせていただきたいと思います。(拍手)