育成条例の最高裁合憲判決についての見解。

健全育成条例の包括指定規制を合憲と判断した岐阜事件の最高裁判決についての見解、というかほとんど奥平康弘先生の考察のコピペなのでお蔵入りするつもりでしたが、最高裁判決を「絶対的な神の秩序」であるかのように考え相対化できない人が少なからずいるという憂慮すべき状況もあるようなので、この際公開しておきます。

1 最高裁第三小法定判決は、いわゆる「包括指定」制度による規制を概括的な理由によって合憲と判断したが、説得力が無い。

2 最高裁判決曰く、

本条例の定めるような有害図書が一般に思慮分別の未熟な青少年の性に関する価値観に悪い影響を及ぼし、性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長につながるものであって、青少年の健全な育成に有害であることは、既に社会共通の認識になっているといってよい。

 よく読んでいただきたい。最高裁判決は「有害図書が・・・・有害であることは」という論理構成となっている。
 要するにトートロジーであり、最高裁判決は規制の根拠を説明し得ていない。

3 最高裁判決は合憲性の前提に「社会共通の認識」を置いているが、立法以外の認識の社会的合意について具体的に説明し得ておらず、なにより、憲法の基本原理である民主主義原理の前提である「価値観の多様性」について考慮していない。

4 最高裁判決の論理では、自販機収納禁止により、青少年が入手できなくなるだけではなく成人も同一効果を甘受せざるを得なくなり、成人に対する規制根拠が無い点で憲法違反の疑義が生ずる。

5 最高裁判決の論理は、「有害図書は・・・有害であることは・・・既に社会共通の認識になっている」という説明によって根拠論を片付けたことになっているが、この多数意見が説明になっていないことは、伊藤正己裁判官の補足意見が示している通りである。

6 伊藤正己裁判官は、本件規制システムが「青少年の知る自由を制限するものである」ことを率直に認めているだけではなく、青少年が偏りのない広い精神的成長をとげるためには、「その知る自由の保障の必要性は高い」ものであるべきことも認めている。

7 伊藤正己裁判官が説明する規制根拠は、青少年の判断未成熟性によっていわゆる「有害図書」の悪影響を受ける被害者となる可能性があるから成人と異なる規制が是認される余地があると説く。
 だが、この判断の前提となるメディア影響論における強力効果学説の因果関係は、クラッパなどの社会学的研究において科学的に実証不可能であることが今日明らかとなっており、メディア悪影響論にに基づく規制には理由が無い。
 よって、「有害」の基準は立法者の個人的な「主観」に依存するから、合憲判断基準とはなり得ない。

8 有害図書指定による規制は、自己決定能力が未熟であることに依拠した伝統的パターナリズム論に依存しているが、1994年の子どもの権利条約の諸規定が示すように、もはや青少年の一般的未熟性を前提とせず、むしろ子どもの自己決定能力の可能性を前提としたうえでそれを育成し増進させ、伝統的なパターナリズムを否定する方向こそが採用すべき憲法秩序である。

9 よって、最高裁多数意見はもとより、伊藤正己裁判官の補足意見は説得力が無い。少なくとも、パターナリズムによる正当化論は破綻し、少なくとも別の根拠論が提出されない限り判決は不当であるといえる。

以上、奥平康弘先生の「ジャーナリズムと法」における岐阜判例に対する批判的検証を要約&補足して提示しつつ、私の個人的見解とさせていただきます。