心のコンクリートで埋められた『コンクリート』

 
2004年。映画『コンクリート』をはじめとして、女子高生コンクリート詰め殺人事件を描いた表現物に対する攻撃が各所で発生しました。
「知らないことについて理解することはできない」という倉谷宣緒氏の言葉には同感です。批評するなら、最低限まず批評の自由の前提として存在する表現の自由を認めた上で、観て批評するべきでしょう。
観ないで「観るな」「観るに値しない」と言うのは批評ではないし、「観させるな」という主張は、観て批評する人の自由(観て「観るに値しない」と批評する人も含めた批評の自由)を奪う言論の排斥にすぎません。
 

■コンクリート オフィシャルサイト
http://www.benten.org/concrete/index.html
メッセージ 平成16年5月12日 エグゼクティブプロデューサー倉谷宣緒
http://www.benten.org/concrete/message01.html

この事件を風化させることなく、目を背けずに直視することで、その先に見えて来るものがある筈である。
人は基本的に知らないこと、観ていないことを理解することはできないからだ。

平成16年6月1日 企画・製作小田泰之 エグゼクティブプロデューサー倉谷宣緒
http://www.benten.org/concrete/message02.html

映画「コンクリート」が5月29日より銀座シネパトスで劇場公開されることが決定し、4月17日にスポーツ新聞紙上でその情報がとりあげられると、まずインターネットで本作に対する意見が飛び交った。
それらのほとんどが、あの事件を映画化するなんて不謹慎だ、けしからんといった否定的なものであり、彼らの攻撃の矛先は公開劇場へと向かうことになる。
そして感情的な抗議は時として悪質ないやがらせや脅しに変わり、正義という名のもとにお互いを煽ってますます肥大化し、とうとう4月26日、公開を断念せざるをえない状況へと追い込んだ。
彼らの抗議はそれでも沈静化することなく、今度は大手のレンタルチェーン店へと向かい、商品の入荷を取りやめるよう働きかけるに至った。
言葉は暴力となり、抗議は抑圧となって猛威を振るった。
私たちは唖然とした。まだ、誰も観ていない映画である。
実際の事件を扱った映画は山ほどあるし、まだ誰も観ていない映画がここまで否定的に扱われたことに驚かざるをえなかった。
だが我々は、見えない相手に対してなす術もなかった。

 
『コンクリート』については、加害少年たちの凌辱殺人行為の一部を省略して表現したり、あるい事実はもっと凄惨なのにもかかわらず凄惨さを薄めて表現した点については、批判はあり得るだろうと私は考えます。なぜなら、凄惨さを薄めれば薄めただけ被害者の実際の苦しみを過小に描くことにもなるから。*1
しかし、排除・吊るし上げ派の抗議の理由はそのような道理ではなく、ただ単に不愉快だから排除するという実に主観的で感情的な理由でした。そこには人間的な共感とは無縁な、エゴイスチックな要求があるだけです。
以下、排除・吊るし上げ派のまとめサイト、のミラーサイト。(本家サイトは自己閉鎖したらしいです)
 

http://www.redrival.com/concrete/
http://www.redrival.com/concrete/konkuri.htm

それと、反対運動が不快なものを排除の理論だうんぬん仰っている方へ。
マイノリティに対する差別と、この問題を一緒にしないで下さい。
あなた方の言い分は、子供達を変質者から守るために活動している保護者にむかって「変質者を排除している!」と非難しているようなものです。
いけないものは、いけないんです。

 
「いけないものは、いけないんんです」というサイト運営者の発言が、排除・吊るし上げ派派の理性の欠如を象徴しています。彼には「なぜいけないのか?」という疑問に対する答えになっていませんし、不快なことを「不快だ」と言う言論を自分で毀損していることにも気づいていません。
変質者と変質者を描いた作品とを区別すべきであるように、被害者を傷つけたのは加害少年と作品とは区別すべきですが、そのことについても上記サイト運営者を含めた排除派は考え及んでいません。
あの事件の被害者は、『コンクリート』に対する非難、いがらせ、妨害という行為によって再びコンクリートに埋められたのです。そのことに気づかない排除・いやがらせ肯定派の本当の目的は、「自分と加害少年は別だ」「自分と加害少年とは違う」という分断処理によって脆弱な自己を保全することでしょう。
 

■映画『コンクリート』抗議運動を笑うサイト
http://www.geocities.jp/tekkin1989/
抗議派との対話――暫定Q&A
http://www.geocities.jp/tekkin1989/qa.html

・抗議派はほとんどが実名を名乗り、誹謗中傷なんか全くなかったって本当?
→騒ぎが起こった当時のスレや関係者のBBSの荒らされっぷりは到底そんな雰囲気じゃありませんでした。
現在のベンテンBBSをごらんください、ちょうど似たような感じです。
菅乃廣さんから教えていただいたところによると、電話に応対した係員が名前を覚えられ執拗にターゲットにされたり、
「劇場に火をつける」「スクリーンをナイフで切り裂く」のような脅迫や、無言電話もあったそうです。
なお、「ほとんどが実名で誹謗中傷なし」と主張する人がソースを出したことは一度もありません。

ストーンダイアリー
http://geocities.yahoo.co.jp/dr/view?member=tekkin1989

2004年7月14日 (水) 道具としての被害者遺族
・・・・
さて。それでは抗議した人々はどうなのだろうか?彼らは遺族のために抗議したのだろうか?
違う。彼らにとってもまた、「遺族」など自分らの嫌がらせにとって都合の良い、正当化の道具に過ぎなかった。遺族のために抗議したのではない。抗議したいから遺族を持ち出したのだ。
彼らは『コンクリート』にしか抗議していない。「私は他のものも否定しています。抗議しました!」と言う人もいるが怪しいものだし、本当だったとしても少数だ。『コンクリート』以外に抗議運動と呼べそうなものは起こっていない。
一方、遺族を悲しませるはずの事件の蒸し返しなどいくらでもあるのだ。笑えるのは2chのコンクリマニア達がそれに加担していることだ。彼らは被害者の実名を嬉々としてやり取りしていたのではなかったか?事件の凄惨な実態をコピペしまくったのではなかったか?自分達の攻撃性のはけ口に貢献してくれるなら、彼らは被害者のプライバシー公開も平気で行っている。
『コンクリート』が、抗議派が流したデマ通りのアダルトビデオであったとしても、それを彼らに責められる筋合いなどありはしない。
抗議する者、製作側、どちらにしても、「遺族の気持ち」「被害者の無念」は道具でしかなかったと思う。遺族を盾に取ることが罪ならば、抗議派のほうが罪が大きいことになる。抗議派は攻撃性を満たすため積極的に遺族を利用したが、製作者は自己防衛のため、かなり消極的な形で言ったに過ぎないからだ。

 
「抗議派は攻撃性を満たすため積極的に遺族を利用した」との認識に私は同感ですが、攻撃性は自己の脆弱な人間性とパラレルであり、その脆弱な人間性を『コンクリート』によって暴露されることを恐れるが故の攻撃性であるということを指摘しておきたいと思います。
 
事件を扱った類似漫画作品として、氏賀Y太さんの『真・現代猟奇伝』があります。
これも私は買って読みましたが、すごい作品です。読んでて手がふるえます。
私が上で書いた文の意味が理解できて読んだ結果に責任が持てる人にはオススメ。
 

■株式会社オークス(桜桃書房)
夢雅COMIX
真・現代猟奇伝/氏賀Y太(作)
http://www.okl-maniax.net/htm/genredata/newmen.html#mugac
http://www.okl-maniax.net/img/large/4861051746.gif

氏賀Y太 毒どく猟奇画廊
http://fx.sakura.ne.jp/~sympow/

  • 警告-

このHPに掲載されている作品には血や内臓・暴力行為といった残酷表現が含まれております。情緒不安定な方・未成年の方・残酷表現に免疫のない方の閲覧を固くお断りいたします。閲覧される方はかならず御自身の責任においてご覧下さいますようお願いいたします。

商業誌作品(2004年度)
http://fx.sakura.ne.jp/~sympow/doku/01uziga/works2004.html
http://fx.sakura.ne.jp/~sympow/doku/xpic/1manga/ryokiden07.jpg
http://fx.sakura.ne.jp/~sympow/doku/xpic/1manga/ryokiden06.jpg
http://fx.sakura.ne.jp/~sympow/doku/xpic/1manga/ryokiden05.jpg

氏賀 Y太
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%bb%e1%b2%ec%20Y%c2%c0
真・現代猟奇伝
真・現代猟奇伝 (夢雅COMICS)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4861051746/
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31430809

 
「真・現代猟奇伝」の批評など。
 

■YellowTearDrops
http://www5e.biglobe.ne.jp/~rolling/
http://www5e.biglobe.ne.jp/~rolling/concrete.htm

こういった作品を描くのは、被害者の家族に対しても、社会的にも気をつかう作業だったろう。エロマンガ本だったとしても、多少の抗議の声はあったと思う。
その中で、これだけの作品に仕上げた作者はさすがと言える。
しかし、私はどうしても、実際の事件はもっと悲惨だったはずだという思いから、この作品を手放しで褒める気にならない。
暴力描写は素晴らしいのだが、実際の事件はこんなものではないと思うからだ。
もちろんマンガとしては十分なのだが、実際の事件の重みを伝えるには軽い。
細かい例を挙げればキリが無いが、実際の事件では発見された被害者の腐敗した死体の膣には小瓶が2本押し込まれたままだった、ということだけでも、このマンガでは到底及ばないほど凄惨なものだったということがわかってもらえると思う。
絵柄のせいもあるかも知れないが、被害者の容貌ももっと悲惨な状態になっていただろうことは容易に想像がつく。
この辺は遠慮と、あくまでエロマンガにしなくては、ということなのだろうか。
私は実際の凶悪犯罪を題材にして、現実の重みを伝えるため、事件の風化を防ぐための価値ある作品が描ける漫画家は、今、氏賀さんしかいないと思っている。
氏賀さんの作品も大好きで、漫画家として尊敬すらしている。
だからあえて言うが、もっともっと凄惨に、読者が目をそむけるほどに、読者に痛みや辛さや悲しみが、2度と読みたくないと思うほど伝わってくる作品にして欲しかった。
そうでなければ、この作品の普遍的価値は薄れてしまうと思うからだ。

■WEB黄色い楕円
http://www.daen.jp/index.htm
黄色い楕円評価室 2004/10/03号
http://www.daen.jp/data/20041003.htm

実際の事件の作品化について
http://blog.livedoor.jp/jigokuhen00/archives/509981.html

 
「コンクリート」排斥運動も含め、今の排斥的な社会的風潮を見ていると、50年後、女子高生コンクリート詰め殺人事件が人々の心に記憶され、女子高生コンクリート詰め殺人事件のような事件が社会で無くなっているかというと、そのような社会にはなっておらず類似の事件があいかわらず続いているのではないかという悲観的な予測を立てざるを得ません。もちろんそうなってほしくはありませんが…。
暴力表現や残酷表現の多くは、“人間である人”と“人間らしい人”との違いを浮き立たせる効果があります。
人間とはなにか。その真実を表現するためには、暴力表現や残酷表現は避けて通ることはできません。そして、多くの画家、文学者などが暴力を表現してきたことも事実です。
自分の中の非人間性を批判されたくない人は、大抵、人間“である人間”と人間“らしい人間”との違いを知らないでいてほしいと願うものです。人間は無条件に人間性を兼ね備えており、したがって自分も無条件に人間性を備えた人間である、と誰からも思われたい。
でも、無条件に、人間性を備えた人間として生まれ、人生を生きていく人などひとりもいません。みんな、悩んで、苦しんで、悲しんで、泣いて、痛みを共感して、そうやって人間らしい人間になっていくのです。
より人間らしい人間“になる”ことは、本当はとてもつらいことです。感情の赴くままケダモノになった方が楽かもしれません。
しかし、人間は人間“になる”ことを望むものだと思うし、人間らしさを求めてこそ得られる人間性、あるいは人間性によって得られる喜びのようなものを望むのだと思います。
そう決断し人間として産まれた人が人間になるために必要なことは、ほんのちょっとの勇気なのかもしれません。
───────────

*1:ただし、私は『コンクリート』が実際の苦しみを過小に描いているとは思っていません。