非暴力不服従と非暴力直接行動

質問です。
もし誰かに殴られた時、殴り返す人と殴り返さない人、どちらが強いでしょうか?
「正当防衛だから殴り返すのは正しいでしょ」「殴り返すのはあたりまえじゃねぇか」って答える人は少なくないかもしれません。
じゃあもうひとつ質問。
もしある人が両手を縛られている状態で誰かに殴られた時、殴り返したいと思う人と殴り返したいとは思わない人、どちらが強いでしょうか?
あえて正解は書きません。
直感的に二者択一の恣意性に気づいた方は、頭の良い方だと思います。
アメリカや日本に限らず、世界に存在する差別や理不尽な支配、管理統制は、殴り返すことのできない人に対して“だけ”に対して行われているのが通常です。
殴り返せばいいという発想は、「パンが食べられないならお菓子を食べればいいじゃない」っていう思考に似ていますね。支配されている側の立場がわかっていない。無知であると同時に想像力が無い。

話は変りますが、黒人関係のネット情報だとココが面白かったです。
いろいろ考えさせられます。

リズム・アンド・ブルースの政治学
http://homepage1.nifty.com/yasumasa-x/japanese/r_and_b_politics/index2.htm
第5章 「激動の60年代」が始まる
http://homepage1.nifty.com/yasumasa-x/japanese/r_and_b_politics/for_print/chapter5.htm

日本で起きている表現規制問題は、差別克服の歴史から学ぶことが多いです。
「非暴力直接行動」という考え方があります。
白人専用バスと黒人専用バスのふたつがあったら両方とも乗るのをやめて歩いて通勤しようというバス・ボイコット。これは「非暴力不服従」の発想。
「非暴力直接行動」は「白人専用バスに黒人が乗って平等の事実を作ってしまえ」という発想です。
この両者を、たとえば東京都の表現物規制、出版流通規制問題に照らして考えるとどうなるか。
ある書店に健全図書専用陳列棚と不健全図書専用陳列棚のふたつがあったら、そういう区分陳列をしている書店には足を運ばず、本を買うのをやめてネットだけの情報生活を送りましょうというのが「非暴力不服従」の発想。
一方、逮捕されてのを覚悟で健全図書専用陳列棚に不健全図書を置き、健全図書専用陳列棚に不健全図書を買えるという平等の事実性をつくってしまえというのが、「非暴力直接行動」。
前者の立場をとっている私は、区分陳列に条件付でも賛成してしまっている出版社の本は、お気に入りの作家がいても買うことはありませんし、区分陳列に粛々と従っている書店にはどんなにいい本が置いてあっても、その本屋から買うことはありません。ネット直販などの別な流通ルートを使用します。
私みたいなことをやっている人や、やってもいいと思っている人って他にもいるんじゃないかと想像しているのですが、どうでしょう?
どうやったら自粛派出版社や規制派書店に対するボイコットをうまく組織化して効果的に実行できるのかということを思案中の今日この頃です。誰かいいアイディア持っていたら教えてください。

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