キーワード「特殊慰安施設協会」

はてなキーワード特殊慰安施設協会」を加筆修正しました。風俗史は専門外ですが、風俗法制史の分野については表現規制の調査の関係で若干の情報があったので、編集させていただきました。追加・修正すべき点がありましたらメールにてご連絡ください。
 

特殊慰安施設協会
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c6%c3%bc%ec%b0%d6%b0%c2%bb%dc%c0%df%b6%a8%b2%f1

敗戦後、大日本帝国政府によって作られた主に進駐軍向けの風俗営業施設または施設のある地域の通称。正式名称は Recreation and Amusement Association (RAA「保養慰安協会」)。
RAAがGHQの命令で設立されたとの俗説があるが、これは事実ではない。敗戦直後の1945年8月18日、「日本は戦争に敗けたので女は米英兵士にレイプされる」との流言への対応に迫られた大日本帝国内務省は、大日本帝国の主体的な占領政策として「外国軍駐屯地における慰安施設に関する内務省警保局長通牒」を各県に発令した。これがRAA設立の端緒である。特殊慰安施設協会内務省が中心になり占領軍対策として半官半民(五千万円ずつ出資)で設立された。
当初登録された1,300人あまりのほとんどが水商売経験の無い女性であったとの俗説があるが、小樽警察署管内ではRAA設置のために貸座敷(公認遊郭)にいた元娼妓を中心に150-160人の接客婦を集め、札幌も同様に元娼妓30人が含まれていたとの証言*1もある。記録*2によれば、札幌警察署が白石遊郭を改装し、貸座敷という名称を廃止して「カフェー」「キャバレー」「バー」「ダンスホール」「レストラン」などに改称させ歓楽街を作った。
当時大蔵官僚であった池田勇人は政府側の人間として働き、後に当時を振り返って「一億で純血が守れるなら安いものだ」と言ったという。警察署も内務省の「良家の子女を守るため」「市民の不安を解消するため」との大義をかざし、RAAの設立に逆らうことはできなかった。
1946年1月20日、GHQは公娼制度はデモクラシーの理想に反するとして「公娼の廃止に関する覚書」を公表。大日本帝国政府はこの発表に先立つ1946年1月12日、公娼制度廃止に関する内務省通達を発し、1946年1月15日、公的組織としてのRAA廃止が実施された。しかし通達の内容は「貸座敷及娼妓は之を廃業せしめ之等廃業者については私娼として家業継続を認め公娼制度を廃止致す」との内容であったため、当時の貸座敷指定地域をそのまま私娼黙認地域として認めた程度で、RAAの活動自体が完全に無くなったわけではなかった。
1946年3月10日、GHQは占領軍内に性病が蔓延しているとの理由で将兵たちにRAA施設への立入り禁止令を発し、大日本帝国政府も1946年3月26日、全国警察所長宛てに「進駐軍の待合、接待所、慰安所地域立入禁止ニ関スル内務省保安部長通牒」を発令した。だが、RAAが最終的に解散したのは1949年4月であった。
1946年11月14日、日本政府は公娼制度廃止後の施策として、私娼の取締・発生の防止保護対策を次官決定し、特定地域に限定して風俗営業を認める施策をとった。これが後の「赤線」(旧公娼地域)「青線」(私娼地域)の誕生を促し、現在の風俗営業地域規制の先例となった。
1949年のRAAの完全解散により、当該地域では街娼が大量に出現。日本の警察とGHQのMPは軍内の性病蔓延予防のため、街娼の「狩り込み」を実施。これに伴い、しばしば通行中の一般女性を巻き込んた検挙・強制検診事件が発生した。

*1::『わたしたちの証言 北海道終戦史』

*2:札幌市教育委員会編纂「札幌市史」