資料:平頂山事件

2005年6月28日に控訴審判決があった平頂山事件についての関連情報です。
以前はネットで見ることができた生存者の方素栄さんの証言が一部消えているので、サルベージしておきます。
戦争責任にはふたつあります。事件を起こした責任と事実として語り継ぐ責任。事件の責任はその当時の人たちの責任ですが、歴史を語り継ぐ責任は現在生きている世代の責任です。
 

■探検ランナーズ PART 2(現在閉鎖)
http://www4.ocn.ne.jp/~y162/index-2.htm
http://web.archive.org/web/*/http://www4.ocn.ne.jp/~y162/sub25-1.htm
http://web.archive.org/web/20021212150330/www4.ocn.ne.jp/~y162/index-2.htm
平頂山虐殺事件と方素栄(ファンスーロン)さん
http://web.archive.org/web/20041104082959/http://www4.ocn.ne.jp/~y162/sub25-1.htm
方素栄さんの証言
http://web.archive.org/web/20030111220541/www4.ocn.ne.jp/~y162/sub25-2.htm

方素栄さんの証言
 
私がこのたび、お招きに応じて日本に来た主な目的は、できるだけ多くの方に接して、私が身を持って体験したことをお話することによって、みなさんに次のことを分かってほしいからです。
それは、先の戦争は中国が日本と戦争を行ったということではなく、日本軍国主義が中国を侵略したのであり、その結果、中国人民に多大な難をもたらしたということです。中日両国人民はこの歴史を決して忘れてはならず、幾世代にわたって語り続け、教育していく必要があること、そしてこの歴史的教訓をしっかりと胸に刻み両国人民が友好往来を強めることを通じて、中日両国が二度と再び戦争を行わず、子々孫々にわたって友好的につきあっていかなければならいないということを申し上げたいのです。
ではこれから私の悲惨な経験をみなさんに紹介したいと思います。私の名前は方素栄、1928年6月2日、遼寧省撫順市平頂山村の幸福な家庭に生まれました。父の名前は韓彦東、母は韓方氏といい、当時私は韓暁仲という名前でしたがまだ小さかったため、伯母や弟や、他の人の名前はみんな忘れてしまいました。1932年9月16日(当時私はたった4才でした)、日本侵略軍は平頂山村を血で洗うように、三千人以上の何の罪もない村人を惨殺しました。私の家族は8人でしたが、私だけが幸運にも災難から免れることができました。他の家族と、たまたま家に来ていた祖父の友人はみんな殺されてしまったのです。そして平頂事件がおこった経緯は次のようだったと記憶しています。
9月16日夜、眠っていると通りのほうで‘殺せ!殺せ!’という声がし、怖くなって目を覚ますと、ただ人の声が聞こえるだけで、何がおこったのかもわからず、ただ怖くてどうしていいのかもわかりませんでした。すると祖父が私を抱いて物置の部屋に隠すと、みんな起きてきて外の気配をうかがっていました。しばらくして人の気配がしなくなると、祖父はやっと私をオンドルの上に抱き上げ、みんなまた眠りについたのでした。あとで分かったことですが、その晩、抗日ゲリラが日本の侵略者を攻撃したときの声だったのです。ところが、平頂山村を通過した日本軍は抗日ゲリラの攻撃を受けたため、‘匪賊と通じている’という口実で、村人すべてをとても人間とは思えないやりかたで虐殺し、国内外を震撼させた平頂山事件を引き起こしたのでした。
思い出すのは、その日の朝起きると、いつものように家の前の道で遊んでいました。すると村のはずれの近くの鉄条網の付近に止まったたくさんの車(トラック)から銃をもった日本兵軍刀を付けた者もいました)がたくさん飛び降りてきて村のほうに走ってくるのが見えました。私はすぐ走って家に帰ると、ちょうど入り口付近の部屋にいた祖父にこわごわ言いました。‘おじいちゃん、見て!日本兵がたくさん走ってくるよ!’すると祖父は急いで出て見るとすぐ戸を閉めました。祖父はてっきり労働者を捕まえにきたと思い込み、父に早く逃げるようにと言いました。父が急いで後ろの庭に走って行こうとした時にはすでに日本兵が戸を押し開けて入って来ていました。そして塀を乗り越えて逃げようとしている父を見つけると、日本兵は銃をかまえて撃ったのです。銃声と同時に弾は父の背中に命中し、父は塀から崩れ落ちるともう動くことができませんでした。おそらく息絶えてしまったのでしょう。私と母、それに祖父や祖母も泣きながら父を見に行こうとしたのですが、日本兵は銃でさえぎり、行かせてくれませんでした。これを最後に、以後父に会うことは二度とありませんでした。
 そして日本兵は私たちに銃を向け、中国語で‘写真を撮るんだ!’と言いながら、家から追い出そうとしたのです。祖父は仕方なくみんな外に出るように促がすと、祖父は私を連れて、母は下の弟を、伯母は上の弟を抱いて、祖母も、屈と言う姓の客人も次々に家から離れました。外に出てみると他の家の人もみな日本兵に追い出されていました。祖父は私の手を引いてみんなの後ろをついて行きましたが、日本兵は絶えず銃でみんなを押し、へたな中国語で‘写真を撮るぞ’と言いながら老若男女、子どもを問わず村人を全て村はずれの山の斜面に追いやってしまったのです。家族ごとに、座っている者もいれば立っている者もいました。私たち家族は一番後にいたのですが人の群れに近づくと、日本兵は私たちに座るような手振りをしました。たくさんの人がまだ座れないでいると、日本兵は写真機とおぼしきものにかけていた黒い布を取り払いました。誰かが、‘だめだ、あれは機関銃だ’と叫びました。そしてみんなが騒ぎ出すと同時に日本兵は、立錐の余地もないほど立ち尽くしている人々に向かって機銃掃射を始めたのでした。人々の中からは、驚きと恐怖と哀しみと痛みが渾然一体となった、それは悲惨な叫び声が上がったのでした。
三千人以上もの村人が、次々と血の海に倒れこんで行く中、銃声がするやいなや祖父は私を抱きかかえ逃げようとしました。が、無情にも一発の銃弾が祖父の腹部に命中したのです。祖父は倒れるとき、私をしっかり抱きかかえていたため、私は祖父の体の下敷きになってしまいました。このとき、私は意識がもうろうとなってしまい、怖さも忘れ、泣くことさえも忘れて、‘ダダダ、ダダダ’という機関銃の音だけが聞こえていたのでした。それからどのくらいの時間が過ぎたのでしょう、気が付くと、機関銃の音もしなくなっていました。祖父の体の下に横たわっていると‘クシュ、クシュ’という音がするだけでした。(これが血を踏みつける音だったことは後になって分かったのでした)隙間からのぞいてみると日本兵がちょうど銃剣をかまえて人間の山の中を歩き回っていました。そして続けざまに悲惨な叫び声が聞こえてくるのでした。日本兵は少しでも息のある者をみつけると銃剣で突き刺したのです。刺されたものが断末魔の叫び声を上げていたのでした。このとき、私と祖父のすぐそばに倒れている母の死体のほうに、上の弟がちょうど‘マーマ’と叫びながら向かって行くのが見えたのです。
一人の日本兵は弟が泣き叫んでいるのを見かけると銃剣を構えて弟を突き刺すと、そのまま力まかせに空中に放り投げたのです。私は驚いて目を閉じたまま、まだ生きていることを気づかれないように祈るだけでした。家族のものは身じろぎをせず私のそばに横たわっていました。みんな、死んでしまったの?しばらくすると、叫び声もしなくなりました。日本兵の動く音もしなくなりました。私はなんとか重たい祖父の体の下からはい出すと、もう外は薄暗くなっていました。日本兵もみんなどこかに行ってしまったので、泣きながら祖父の体を押してみたのですが少しも動きません。母と伯母の体を引っ張ってみても動いてくれません。母の頭は、血と脳みそがぐちゃぐちゃになっていました。下の弟は母に抱かれたまま死んでいました。みんな殺されてしまったのです。まわりは死体だらけで血だらけでした。私だけは致命傷を負わなかったため、幸運にも生き残ったのです。でもあとになって分かった事ですが、頭、左腕、右の肋骨、右大腿部など八ヶ所に傷があり、一発の銃弾が首に残っていたのでした。
私は父がまだ家にいたのを思い出し、どうなっているか見にいこう思いました。しかし私の目に飛び込んできたのは、すでに焦土と化し、瓦礫の山となってしまった平頂山村でした。家はただ柱が焼け残っているだけで、家の中の物はまだ煙を上げていました。日本兵は三千人以上の人を虐殺しただけではなく、火を放って村全部を焼き尽くしてしまったのでした。家がなくなってしまったのです。すでに日は暮れて、小雨も降り出したころには、私は寒いうえ傷口も痛むし(特に首が痛かったのを覚えています)、どこに行けばよいのかも分からず、結局、また祖父や家族が殺された場所に戻るしかなく、やっとのことですでに息絶えた祖父を見つけると、怖くてたまらず、祖父の体の下で眠ることもできず苦しい一夜を過ごしたのでした。
翌日、9月17日、明るくなるやいなや起きだして近くに横たわっている家族をじっと見ていました。そしてまた引っ張ってみるのですが動きません、名前を呼んでも答えてくれません、本当にみんな、死んでしまったのでした。それからは、一体どこに行けばよいのかが一番の問題でした。近くにある労働者が住んでいる大部屋(宿舎)に行こうと思いました。以前、祖父に連れられて行ったことがあるし、宋さんと言う人と面識がありましたので、体は痛かったのですがそれでも歩いたり這ったりしながら宿舎の鉄条網のそばまで来ると、立ったまま様子をうかがっていました。するとちょうどよいことに、大部屋でご飯をたいていた宋さんが水撒きにでてきたところで私を見つけてくれたのでした。宋さんは、最初こそびっくりした様子でしたが、すぐに全てを悟り、急いで大部屋に私を連れて行き、自分が掛け布団に使っていた麻袋で私を包み、オンドルの中に横たえると、動かないように、そして声を出さないように言ったのです。というのは、日本軍が平頂山村で虐殺を行った後、すでに掲示を出していたのでした。それは‘平頂山村の人間はみな匪賊である、もし匪賊を隠したりしたものを報告しなければ同罪とみなし、一緒に銃殺する’という内容でした。さらに市内に通じる道路には検問所を設けて、通行人を調べていたので、宋さんは、私を大部屋にかくまっている内にうわさがもれてしまうと、私を救えなくなるばかりか自分も巻添えになり、結局みんな生きていけなくなると思い、どこか別のところに親戚はいないかなどと尋ねたのでした。私が母方の祖父の家が千金寨(現在の撫順市内で平頂山村から約10キロの所)にあることを告げると、次の日にちょうど市内に引越しする労働者と相談した結果、私を祖父の家まで送り届けてもらえることになりました。
翌日(9月18日)、馬車に腰掛けると、宋さんがおおきなカメ(陶磁器製でした)を逆さまにしてその中に私を隠してくれました。そしてカメの外側にいろんなものを無造作に置いたのでした。すると、検問所を通る時に、日本兵に検査の為に止められ、剣で馬車にある物を突き刺していました。私はカメの中にいたため刺されませんでしたが、怖くて死にそうな上、息も満足にできないままでしたが、どうにか千金寨の祖父の家に着くことができたのでした。
家に着くと、祖父や祖母、叔父、伯母は、家でおこったことがとても気になるのか、くりかえし事件が起きた詳しい経過を尋ねたのでした。また祖父の家にいた親戚や知り合いもとても気にかけてくれてあれやこれやと聞かれたために、事件の経過については、とても深い印象として現在まで忘れることなくしっかりと記憶されているのです。私が祖父の家にいることで、みんなは戸籍を調べられ、平頂山から逃げてきたのが分かるのではないかと心配していたため、再び不幸なことに遭遇しないように、みんなを巻添えにしないためにも、私は名前を現在の方素栄に改めたのでした。
私は祖父の家にいた間、体に傷があるのにあえて病院には行きませんでした。ただ覚えているのは、着いたときは服は血だらけで、伯母が何度も水で洗ってくれたことでした。祖父の家は市内にあったため、みんなは、私が日本兵に見つかってまた連れていかれはしないかとひどく心配していました。そのため祖父の家には何日かいただけで、伯母が市外の干猫子という村に連れて行き、親戚の家にかくまってくれました。着いたばかりの時は、見つかるのが怖くて昼間は高粱畑に隠れていて、夜を待ってから家に帰ったのでした。
忘れられないのは、首に銃弾が一発残っていて、それが痛くていつも痛い、痛いと言っていると‘日本兵に見つかって連れて行かれるよ’と伯母がいうので、怖くなって叫び声も出せなくて、こっそりと小声で泣くことしかできなかったことでした。
傷の治療には、当時千金寨まで行って薬品を買い求めて来るほかに、いくつかの民間療法がありました。たしかそれはカボチャを砕いたものを傷口に貼り付けておくというものでした。どのぐらいの時間だったかは覚えてませんが、首の銃弾が少しずつくっついて出てきたのでした。そして身体の傷もおおかた治った頃、伯母は再び私を千金寨の祖父の家に連れて帰りました。祖父の家の大人たちは再三私にこう言ったのです。‘おまえの境遇は、外では誰にも言ってはならんぞ!’ですから、私が平頂山から逃れてきたことを他の人はだれも知りませんでした。その時は、街で日本兵を見かけるとかくれて歩きました。こうして日本兵の凶悪な面影は、私の小さな心に深く刻み付けられたのでした。
幼年時代は、日本軍が引き起こした平頂山事件によって、家庭を壊され、私から家族まで奪いとってしまい、私を孤児にしてしまいました。満足に食べられず、着る ものもなく、精神的にも大きな苦しみを受け、生活も最低でした。平頂山事件がおこる前は、本当に幸福な家庭でした。父は時計修理の店を持ち、祖父は雑貨店を経営していて、生活もかなり裕福で、当時としてはまあまあの家だったと記憶しています。ところが‘事件’のあと、祖父のところに来てからは、状況はあきらかに違っていました。生活はかなり貧しく、いつも糠(ぬか)を食べ、外にはえている草で飢えをしのいでいました。それでも食べるものがなく、人の家で食べる時もありました。小学生の時には、学校でキャンプがあった時、叔父は息子には小遣いをやるのですが、私にはくれませんでした。私は五年生で学校をやめてしまいましたが、息子は‘国民高等学校’まで行かせました。これはお金がなかったからでしょうか?自分の娘でなかったから、それとも男尊女卑なのでしょうか?いくつかの原因があったように思います。もしこの事件がなかったなら、本来の家庭だったら、こんなことは絶対なかったはずです。
学校では、着る物、使う物、すべてが同級生より劣っていました。私はもっともみすぼらしい生徒で、夏はまだしも、冬になっても着る物は薄っぺらで、凍えていつも震えていました。綿入れの靴などありませんから、足はしもやけだらけで痛くてたまりませんでした。まわりの同級生はみんな、私が実の子どもではないということに気づいていたようです。平頂山事件から逃れてきたことはわからなくても、私が父母の子どもではないと言っては、いつもいじめられたのでした。
祖父の家では、祖父と伯母は私に本当によくしてくれました。でも父母の愛とはどうしても違うもので同級生には両親がいて、私だけがいないと思うと、本当にやりきれない気持ちでいっぱいでした。
十五歳の時に学校をやめ、日本が経営する製鉄工場で働くことになりました。当時は日本人を恨み、また恐れていましたが、生きていくためにはそこで働くしかなかったのです。毎月5キロの高粱がもらえるので、そのために行ったのです。そこの仕事は車番を記録することでしたが、事務所で日本人にお茶も入れたりしていました。二、三人の若い日本人は本当に嫌いで、お茶も入れたくありませんでした。一度、一人の年若い日本人がむりやりお茶を入れるようにいうので、入れませんでした。すると彼は怒って湯呑みを私に投げつけたのです。この事があった次の日から、仕事に行きませんでした。
もともと私には幸せな幼年時代があったはずで、両親たちの愛情のもと、すこやかに成長するはずが、日本軍国主義の引き起こした侵略戦争、平頂山事件によって、小さい時に家族みんなが惨殺されるという光景を見せつけられたため、身も心も傷を負い、目にはいつも涙があふれ、驚きと恐怖と、抑圧の下での生活は決して満たされることはなく、いつもいじめにあうなど、暮らしにくいことには事欠きませんでした。日本の侵略戦争によってめちゃくちゃにされた幼年時代、このために私の一生は、これらのひとつひとつのむごたらしい、決して忘れることなどできない情景で埋め尽くされてしまったのでした。
平頂山事件は、日本の中国侵略戦争が犯した大罪の一つにすぎませんが、それだけでも日本軍国主義の残虐性は十分知ることができるのです。1931年の‘9・18’(日本でいう満州事変)から1945年の‘8・15’までに、日本軍国主義は中国で数え切れないほどの大罪を犯しました。特に世界を震撼させた南京大虐殺は、最大の虐殺行為でした。日本軍は、中国の土地を屠殺場に変えてしまい、善良な中国人を勝手気ままに殺したのです。これは日本軍がによるまぎれもない罪悪に満ちた歴史であり、中国人に大きな血の債務を負ったのです。
中日両国人民は、日本が行った中国侵略戦争が、中国人民に多大な災難をもたらしただけでなく、日本人民にも不幸をもたらしたことをけっして忘れてはいけません。中日両国人民は互いに手を携えて二度と戦争をおこさないよう、行動しなければならないとおもいます。
1956年、撫順の西露天鉱の託児所の所長として働いていた時、撫順戦犯管理所に収容されていた日本人戦犯が西露店鉱を参観したとき、私は平頂山事件の経過を話すことになりました。平頂山の三千人以上の人が虐殺された時の話になると、多くの戦犯たちは泣きながら私の前にひざまづき、罪を請うのでした。そして平頂山事件に実際に加わった一人の戦犯は、‘いま私を殺してください、自分も望んでいます。取り返しのつかない大罪を犯したことを悔やんでいます’と言ったのでした。当時、中国共産党が私に教え導いてくれたこと、すなわち個人的な恨みや怒りからだけで行動してはならず、敵と味方は‘階級’によって区別する、ということを理解し、受け入れることができていましたので、私は彼らにこう言いました。‘個人的な感情から言えばあなたたちを切り刻んでも恨みははれることはないでしょう。しかし私は共産党員です。共産党の教えに従って考え、行動しなければほんとうに解決できません。もしあなたたちが自分の罪を認めさえすれば、政府は必ず寛大な処置をしてくれるはずです’
のちに、当時の所長が言うには、彼らは帰る途中、車の中でずっと泣いていて、ご飯がのどをとおらないものもいたそうです。戦犯たちは、侵略した罪について十分に理解をし、自分の誤った考えを心から改めた結果、全員寛大な処置により日本へ返されたのでした。
昨年2月、東京に来て、法廷で証言を行った後、いくつかの県や市で行われた集会に参加して事件の経過をお話する機会があったのですが、岐阜県に住んでいるご老人(86歳)、中国帰還者連絡会の方でしたが、私の前まできてひざまづき、ひどく泣きながらこういったのでした。私はかつて撫順であなたのお話を聞きました、今再び許しを請いたい、と。私は言いました。‘今では互いに友人ですよ。後世にわたってこの事を教え、歴史の教訓を汲み取らなくてはなりません。中日友好関係をさらに発展させ、両国が二度と戦争をしないために何かできることをすることこそ、罪を認めた本当の証しになるのではないでしょうか’
やはり岐阜からみえた80歳のご老人は、集会終了後、ホテルにかけつけ、私にこう言ったのです。‘自分は遠くからきたのですが、証言を聴いて目が覚めた思いです。私は中国政府の寛大な処置に感謝しています、中国人民に感謝しています。若い頃、自分も軍人として侵略に加わり、山西省の部隊に配属されました。そして多くの日本軍が中国人を惨殺したのを見ましたし自分もやりました。慙愧の念ははれませんし、謝罪します’
昨年、来日してから多くの人とお会いしました。みなさん、あの侵略戦争によって、中国人民に対して本当にひどい罪を犯してしまったこと、そして日本政府はその罪を認め、賠償を行うべきだとも思っています。しかし、日本にはごく少数の人が、あの侵略戦争を美化しようとしていることや、日本軍が中国で犯した野蛮行為を認めず、謝罪もしないだけでなく被害を受けた中国人に必要な経済的賠償もする必要はないと主張していると聞いています。
それならどうでしょう、ひとつ立場を変えてみて、これらの人も、私と同様、自分の国が外国の軍隊に侵略され、虐殺が行われ、家は焼かれ、家族も殺されてしまって、ところがその国はそんなことはおかまいなしに、それどころか自分の残虐行為を美化するとしたら、どういう気持ちになるでしょうか?そして何と言うでしょうか?
私はもう一度厳粛に言いたい。日本軍が撫順で引き起こした平頂山事件によって、日本政府は中国人民に対して多大な血の債務を負うことになったのです。中国には‘血の債務は血で還す’という言葉があります。しかし私は日本政府にそれを要求しているのではありません。ただ誠実な謝罪と、いくらかの経済的賠償を要求しているだけです。昨年、私は東京地方裁判所で証言を行ったとき、日本政府に対して二つの要求を出しました。一つは、平頂山事件で被害にあった三千人以上の民衆と、わずかに生き残ったものに対して、正式な謝罪を公に行うこと、二つ目は、日本政府が誠意を持って罪を認めた証として、いくらかの経済的な賠償を行うこと。そしてこれを拒否することは許されない、ということでした。
正義感に溢れる日本の友人のみなさんが、今後、子々孫々にわたる友好と、両国が永遠に戦争を行わないためにも、歴史を尊重し事実を尊重できるように幾世代にわたって教え導いていかれることを強く希望いたします。また、日本政府が一日も早く中国人民とアジアの人民に対して謝罪と補償を行うよう強く要求してほしいのです。
最後に、私たち平頂山事件の生存者である莫得勝、楊宝山、そして私(方素栄)の三人は、日本政府に対して訴訟を起こしました。いままでにも日本の正義感溢れる友人の皆さんの多大な支持をいただいております。この場をお借りして、平頂山事件の犠牲者と生存者を代表して、これまで私たちを応援していただいた皆様に深く感謝申し上げたいと思います。私たち生存者は、補償を勝ち取るまで頑張る決意です。もし、私たちが生きている間が無理ならば、次の世代が、日本政府が罪を認めるまで要求し続けるでしょう。
今後、更に多くの方が、これまでと同様に私たちを力強く支持していただきますようお願いして、私の話を終わりたいと思います。謝謝!
(2001年7月13日証言集会にて:通訳と翻訳:小田隆夫さんとホウコンさん)

http://web.archive.org/web/20041104082959/http://www4.ocn.ne.jp/~y162/DSC00059.JPG

方素栄さん証言集会
http://www4.plala.or.jp/kokoronokinniku/hou-shougen.htm

旧日本軍の大量虐殺:中国・平頂山事件
http://plaza.rakuten.co.jp/chiaki1000/diary/20050224/

平頂山惨案遺址紀念館
http://www.d5.dion.ne.jp/~izumo999/pingdingshan.htm
撫順戦犯管理所と平頂山
http://www.ne.jp/asahi/n/toyoda/chukiren/chukiren_j.html

中帰連
撫順の奇蹟を受け継ぐ会 声明
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/action/050429seimei.htm
訪中記 坪川宏子
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/15/15_tubokawa.html
加害の証言
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/syougen/syougen_main.htm

歴史を受けとめ新たな未来へと歩み出す旅
加害者としての歴史を学ぶ
http://www.min-iren.gr.jp/search/03heiwa/asia/china/001.html

JANJAN
戦犯管理所の招待を受け訪中 2005/07/27
http://www.janjan.jp/world/0507/0507259986/1.php

あやしい調査団・満洲どよよん紀行・6
http://www.asahi-net.or.jp/~KU3N-KYM/doyoyon/doyoyo6.html

平頂山惨案遺址紀念館(写真注意)
http://negatives-erbe.hp.infoseek.co.jp/pingdingshan/pingdingshan_1.html

戦後補償裁判(22)――平頂山事件控訴審判決
http://www.jicl.jp/now/saiban/backnumber/sengo_22.html

この事件で幸いにも生き残った方たちが、この虐殺行為に対して賠償を求めたのが本件訴訟です。2002年6月28日に言い渡された第一審判決で、東京地裁は、国家無答責などを理由に、請求を棄却していました。それに対して原告側が控訴し、今回の判決は、その控訴に対する判決でした。
結果は、冒頭に書いたとおり、控訴棄却でした。
判決は、一審の認定した事実を、すべて認定しました。さらに加えて、事件のために教育を受ける機会に恵まれなかったこと、平頂山事件の生存者であることを隠し続けなければいけなかったこと、そして精神的な傷跡を引きずりながら生活を送らざるを得なかったことを認定しました。
しかし、本件虐殺行為は、日本軍の戦争行為・作戦活動として行われたものであって、わが国の軍事力行使の一環としてなされたものであると認定しました。そして、国家賠償法施行前の行為については、同法付則6項が「従前の例による」としていたことに鑑み、「従前の例」がどのようなものであったかについて、明治期の行政裁判所法や裁判所構成法、あるいは民法に関する当時の議論を参照・検討して、当時は国家無答責、すなわち、権力的作用に基づく損害について国または公共団体は賠償責任を負わない、と判断しました。
立法不作為を理由とする賠償請求について、日中共同宣言により、中国政府が賠償請求権を放棄したことから、日本が被害者に対して「十分な賠償を行ったとはいえない」と述べました。それゆえ、「本件加害行為によって大きな精神的苦痛を受けたであろう控訴人らが我が国に対して賠償を求める本件訴訟を提起したことには無理からぬところがある」として、被害者の心情に一定の理解を示しました。しかし、国会の立法裁量を広く認めて、立法不作為の違法性を認めませんでした。
原告の一人で、この日の判決のために来日していた楊宝山さんは、「事実を認めたのに、賠償を認めないのは不公平です。言葉と国は違っても、感情は同じはずです。本件判決には、道義も正義もありません」と、判決を厳しく批判しました。

中華人民共和国駐日日本国大使館
東京高裁、原告の請求を棄却 「平頂山事件」訴訟 2005/05/15
http://www.china-embassy.or.jp/jpn/xwdt/t195785.htm

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